心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

2022-12-01から1ヶ月間の記事一覧

仏教的正見とオカルト(迷信、思い込み)の違い

納得ができない“前生の業” 問い お寺によく参るおばあさんが「この世のことは、すべて前世の業による」と 言われました。私は納得できません。仏教では「業」「前世」をどのように説いているのでしょうか。 答え この世には説明のつかないことや、またどう考…

神経過敏のしくみ

精神の調和作用 この原理はまた一面より見れば、精神の調和作用ということによっても説明することができる。屋外のブリキ屋の音はやかましく感ずるけれども、自分でたたくブリキの音は、自分の耳の近くであるにもかかわらず、邪魔にならないのはなぜか。これ…

主観とはなにか

なお主観とか、体得とかいう言葉の意義について、少し説明を加えておかねばならない。 そもそも主観または体得ということは、感覚、気分であれ、反応、行動であれ、そのもの、その事柄自体の意味である。 批判を離れた直観とか自覚そのままのものである。 禅…

理想から見下ろす癖 思考パターン

神経症者は、事実を無視して、「理想」から自他を見下ろす。あるいは「思想」から、思惑や欲望から、ギャップを生み出す。自分を責めて、さらにありえない妄想や完全にこだわる。たとえば、人から嫌われたらどうしようと考えてしまうが、嫌われない人などい…

心と身体の調和(ハーモニー)河合隼雄

僕が思うのは、結局心と体というのは関連していて、自我っていうのは、心と体の両方のコントロールできるんですね。で、心も身体も一つの全体として動いているわけね。で、全体としての動きの中で、自我をもっているというのが人間の非常におもしろいところ…

気持ちで神経症を捩じ伏せることはできない

苦痛、煩悶に対して、自分でこれを除去しようとする努力は、禅の言葉に、「一波をもって、一波を消そうとすれば、千波万波、こもごも起こる」といってあるように、自分の心の波で、自分の心の波に対抗するのであるから、その心は、ますます錯雑紛糾すべきは…

あるのはエゴイズムだけ 仏教編

残念ながら、人には、欲求、煩悩、エゴイズムしかない。 自分は正しいと思っている観念上のことは、あくまで主観的でしかない。 外側にある決まりや正義や法律は、あくまで、外在的なもので、人の内側を表すものではない。 人の内側が、実は、主観的なエゴイ…

心の置き所を間違えない 

また患者の訴える苦悩そのものに対しては、これはもともと最初に心のおきどころを誤ったために、ますますその苦悶を増長せしめたものであって、これをもとのありのままの自然にかえせば、苦悩はたちまち消散するのである。 自然というのは人生の実際の事実で…

常に不安であるという安心

また既往の(神経症の)異常時のことを追憶して夢のように感じ、あるいは、なぜあのような考えを起こしていたか、自分で不思議でならないとかいうような患者もある。 こうなって患者は、はじめてよく、「夢のうちの有無は、有無共に無なり、迷いのうちの是非…

自分の身体ばかり観察するクセ

なお主観とか、体得とかいう言葉の意義について、少し説明を加えておかねばならない。そもそも主観または体得ということは、感覚、気分であれ、反応、行動であれ、そのもの、その事柄自体の意味である。 批判を離れた直観とか自覚そのままのものである。禅で…

人工的の拙策に雁字搦めになるな 森田正馬

それ故、思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然これを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然これを苦痛、恐怖し、煩悶はそのまま煩悶すべきである。 いたずらに人工的の拙策をもてあそんではならない、ということに帰着する。 これはつまり私たちが自然に服…

人は、不快感にさえ執着する 森田正馬

不快感情の執着 上にあげた心悸亢進発作のようなものは、特に実例について、その発作の発展と経過の状況を少しくわしく観察すれば、もっとも容易に、これが精神交互作用によって起こるものである、ということが知られる。なお、その他単純な頭痛、めまいとか…

気を紛らわそうとしない

ありのままとは、雑念や恐怖や不安がありながらも、やるべきことやれる「大人」な態度であり、なにもしないで開き直ることではない。 よくベテランのピッチャーが、悪いなりにまとめました、というが、それが「プロ」である。 しかし、いちいち幼稚な理想や…

真の痛みではない 仮性幻覚とは

自己の内部(主として身体の一部であるが観念的なものでもありうる)への投射である。これは内部投射と名づけてもよいであろう。 (胃の痛みも、胃潰瘍などの真の痛みではなく、痛みの仮性幻覚であり、それはその患者の不安がそこに投射されたものと考えられる…

ありのままとは 

新聞を讀む事も、談話も、手仕事も、喫烟も、又苦悶の起る時に自ら氣を紛らせるやうな事も一切全く禁ずるのである。其の目的は若し空想なり煩悶なりがあれば、之が自然に起るべきに起り、其の苦悶は自然の成行きに從ふより外に途のないやうに、患者の境遇を…

今回は短めに 事実本位とは 森田正馬

神経症において大事な事実本位とは、苦、無常であり、避けられないということ それに直面すること。 たとえば、恐怖や不安がなんともないのだから、幽霊を信じる人に、幽霊なんか科学的にらありえないのだから、しっかりしろよ、という客観的な科学の知見に…

頭の中で勝ったつもりにならない

自分や他人も、よく分からないままに、自分は、なんとなく優位性を感じたり、でっちあげたりするのが、神経症者の自尊心だ。神経症者は、とくに主観的になりやすく、器質的な病気がないのに、主観的に体のあちこちに異常があるという。それは、まさに幽霊や…

人のこころのありのままとはむしろ逆である 

森田正馬は、悪戯に、苦悩を排除せずに、苦しみに至ってむしろそれを乗り越えてゆくことを示す。 すなわち、人とは、人生とは、要は「苦」であって、それを認めよ、それが「あるがまま」だと言う。 神経症者の不安や恐怖は、回避したり、いつわりの知恵や理…

治る前の心 自信など光など必要ない

(患者)かえりみれば、過去三年余、がんこな強迫観念に悩まされて、悪戦苦闘し、 何度か絶望のふちに身を投げようとした私であった。けれどもいまは、 森田先生の絶大な力によって迷夢からさまされ、生の前途を示す微光を見出すことができた。ただこの微光(…

学問について 

ニーチェに惹かれるというのは、ひとえに「貴族的」ということだろう。そういう表現自体、文学に類する言い方になるが、そうは言っても、外的価値に委ねて自己救済しようする甘さ、すなわち「奴隷」が学問に溢れている。それは、悪戯に「色眼鏡」を増やすよ…

論理の錯誤 思想の矛盾

よく人を、「説得」しようとする人や、自分自身がいる。 いたずらに、ポジティヴでいようとか、考えないようにしようと、「排除的思考」になるのではなく、不快感をそのままでいようとして、認めることが先決だ。 排除的になると、ますます、反発によってそ…

「治る」意味 神経症の場合

治すとは、忘れてしまい、意識の集中が、不快な身体症状への一点から周縁になるわけで、「症状そのものがなくなる」というわけではない。とらわれが少なくなっただけでしかない。つまり、あるものはあるとして、過剰な執着や迷信がなくなる。それが「治る」…

性格というのは煩悩そのものである スマナサーラ

性格というものは、貪瞋痴という煩悩で形成されるのです。しかし普通の人間には、この三つの煩悩の理解も出来ないのです。単なる欲を向上心だと言ったり、あるいは実際は欲に走っている人を、たいへん明るくて活発な人だと言ったりする場合もあります。怒り…

苦や不浄を見破ることこそ「正見」である

余計なことをなにひとつやらないでも、太陽や星はかがやいている。 辺にいじるからおかしなことになる。 神経症は、流動的な、錯覚、夢、主観に近い。 心理的なものだ。 今まで、一切皆苦、無常が分からなかったが、いまは、分かるようだ。一切はただ苦であ…

体得するとはなにか

純主観とは、体得のことである。我々は、主観的に勝手に判断しているが、なにかに夢中なときは、それに成り切っている。それが会得であり体得である。 つまり、自己に対して批判や観察を離れた、動作そのものになりきる、ことである。 自分に良い意味で気づ…

再度 治すためではない神経症

治すための行動や、方法ではなく、症状があっても、目的をこなすのが正しい。 神経症の場合は、症状は、見せかけの仮性である。症状よりも、「意識しすぎる」のが、問題で、「症状を治すこと」ではない。ならば、どうするか。 結局は、神経症そのものに直面…

神経症者は「すなお」では無くなってゆく

森田正馬は、「すなおさ」を推奨している。 世の中にいじけて、ことあるごとに、遺憾の意を示したがり、お気持ちや、白けて見せたり、密かに自分は優れているという「気持ち」本意の意見が目立つ。 神経症者は、「お気持ち」いかに自分が周りの世界に遺憾で…

のっとりは怖いもの 心理的欲求不満で他人や自分の人生を台無しにする V.フランクルの考えに寄せて

よく人は、〇〇に則る、ものだ。 運動会などで、我々選手一同は…と〇〇に則り、正々堂々と闘うものだが、まさに、それは神経症の場合は、気分や妄想や迷信や思い込みという他人に対して、自分のアカウントやスマホを自由に使わせるようなものだ。つまり、易…

閑話休題 

いつも、森田正馬ばかり引用しているが、たまには、自分で。 当たり前だが、流れが悪いのは、流せないからである、ということが、わからない場合がある。流れが良いのは、悪いことを気にしないで、良いことばかりに意識が向いているからでしかない。悪いとい…

神経症は、「意識する病」である 森田正馬

注意の執着神経質患者が、夢が多いといったり、一定の強迫観念が絶えず念頭に現われるというのは、単に注意の執着による意識の関係から説明することができる。私たちは、こまかく自己観察をすれば、眠りからさめるときには、ほとんど必ず夢を見ていることを…