心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

ありのままとは 

新聞を讀む事も、談話も、手仕事も、喫烟も、又苦悶の起る時に自ら氣を紛らせるやうな事も一切全く禁ずるのである。其の目的は若し空想なり煩悶なりがあれば、之が自然に起るべきに起り、其の苦悶は自然の成行きに從ふより外に途のないやうに、患者の境遇を指定してある事である  森田正馬

 

 

感想

 

森田正馬の、ありのままが、誤解を招くことがあるような気がする。これは、まったくなにもしないかのように、言えるからだ。

 

たしかに、実際、森田は文章や説明がうまくなかったかもしれないが、本質的な部分は仏教、理論的にはフランクルに似ている。

難解なのは、我々が「治す」ことの先入観による「とらわれ」があるからだ。

フランクル森田正馬も指摘しているが、神経症は、「意識すること」の病気である。

 

たとえば、魅力ある異性がいて、つい目で追ってしまうとする、赤面したとする。それは、生理にすぎないが、それは、いけないから、治そうとする。その「治そうとする意識」が過剰になり、いつしか、赤面=悪になる。これは、私も思春期に赤面症を体験したから分かる。しかし、いまは、そんなことを気にする余地もない。つまり、神経症は身体に現れてくるが、必要以上に体の変化を「治す=体の生理変化を拒む」という誤解から、反発のエネルギーから症状が強くなるわけだ。これは、強迫や反動形成に似ている。好きな人にもかかわらず、好きじゃないとか、嫌いとか、無関心を装うほどに、「意識的に強めてしまう」。これを神経症者は、「どうにかしよう」とするが、基本的に、人生や人は、そうなったら、なりゆき以外は手の施し用がない場合がある。

 

森田正馬は、ありのままと言ったが、神経症者が、避けたいこと、すなわち「苦悩を回避する」か「苦悩を治す」のではなく、全面的に直面せよ、という。

 

これは、患者には寝耳に水である。薬を出せ、そんなのは「科学的」ではないということになる。しかし、森田正馬の療法は力動精神的には、必ずしもオカルトとは言えない。本質は、仏教であり、自然や科学を否定する「オカルト」や「気合い主義」ではない。

 

ありのままとは、ありのままに、苦を認めている状態である。すなわち、現代ではとくに評判が悪い「我慢」に近い。耐える。苦を認める。苦を認めてじっとしていると、痛みの内側に入る。客観的な「認識」から、苦悩になりきるというのは、禅的な修行に近いのかもしれない。

 

力動精神的には、たしかに、エネルギーは反発すれば高まるのだから、反発しないほうがよいのはたしかだ。

 

この、東洋精神のような、「為さざるして成す」というのは、なかなか理解しがたい。しかも、苦のうちに入れば、客観的に苦を見れないで、「内」にいるのだから、もう苦を認識できない、すなわち無我を為すに近いのだから、「体得」するには、半信半疑の人もいるだろう。

 

どうすればよいか。それは、ホラーハウスの前でぐだぐだやってないで、さっさと入って、いっそのこと幽霊になって、ホラーハウスのしくみを知って、人をおどかす側になれ、みたいなことだ。

 

たしかに理屈的には間違いない。怖いなら、「脅かし役」すなわち、恐怖そのものになれば、おどかす側がビクビクしているはずがない。幽霊の正体見たり枯れ尾花のごとく、お化け役はむしろ楽しいものだ。

 

神経症者は、しくみがわからないで、入りもしないで、まるで「幽霊がいる」かもしれない、死ぬかもなんてのと似ている。それでは、治らないというのだ。

 

森田は、「煩悶が起つても決して自ら氣を紛らせようとか、其の煩悶を忘れよう、破壞しようなどとする事なく、寧ろ自ら進んで煩悶しなければならぬ。」という。まさに、手ぶらで、直面しろ、というさまだ。これは、逆説だ。フランクルも、逆説的に、「神経症の症状になれ」と言う。

 

わがままに対して、わがままで対抗すれば、必ず反発する。高速で走ってくる車がいたら、あなたはどうするか。常人は「すなおに恐怖におののき脇道にそれてやりすごす」これを、神経症は、わざわざ食い止めようとする。虚栄心や「すなおさ」がないままに、いちいち流れを食い止めたり、どうにかしようとする。

 

余計なことを考えるな、とか希望を持て、とかいったり、無念無心の悟りを目指すまえに、普通に不安や恐怖のままいけ、ということになる。