心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

のっとりは怖いもの 心理的欲求不満で他人や自分の人生を台無しにする V.フランクルの考えに寄せて

よく人は、〇〇に則る、ものだ。

運動会などで、我々選手一同は…と〇〇に則り、正々堂々と闘うものだが、まさに、それは神経症の場合は、気分や妄想や迷信や思い込みという他人に対して、自分のアカウントやスマホを自由に使わせるようなものだ。つまり、易々と人生を他人や不愉快な感覚に譲っているわけになる。それは、周りの医師や身内にも不可解ないわゆる「原因不明」の病だ。自己にとらわれやすいのだ。

 

神経症の場合は、それは、主観的な感覚や、思い込み、気分や病の感覚だし、心理的な思い込みだ。あるいは、「人生なんて自分なんてこんなもん」というエゴの力だ。たしかにある程度、真理や宇宙や世の中に服従するしかない側面があるが、人は、ときに勝手な理想や絶望感に、必要もないのに自分の人生をいともあっさり譲ってしまう。

 

つまり、これは、まさに「のっとられた」状態だ。しかし、のっとられた状態でさえ、人は、自分だと思っている。「それが人生だ」と、神経症の場合は、精神交互作用で強めて合理化しようとする。この苦しみは分からないとすることで、他人に憎しみ、怒り、恨みを募らせるようになる。そしてさらに、怒りや怨みや憎しみに支配される。という逃げ道がない「支配されっぱなしの人生」…まさに、アカウント「のっとられ」やられ放題と喩えることができる。

 

他人にはおよそ理解し難い主観的なこだわりや暗示、気分に「則る」というのは、まさに、自分の人生が、気分や病や意識に明け渡す行為になる。自分で生きているようで、いつも生きていない。むしろ神経症のほうがイキイキしていて、自分の神経症に耐えられずに、他人に病気の話をしてまで、自分で引き受けようとはしない。苦痛を自分で受け付けようとはせずに、人にいかに人生が苦しんでいるかを分からせようとする。実は、我が家系は、そんな血が、父方、母方の祖父母にあった。神経症者は、病気を自慢し、なにもないのに、病気だと騒ぐ、我が家の「悪習」。私は、神経症を全く肯定的には見ていない。身勝手病、自己愛妄想だと思うし、森田正馬も、自己中心性を、指摘している。たしかに、真面目や頑固やこだわりが、良い面に繋がるが、デメリットはやはり大きなものだ。私ごとだが、我が神経症家庭は、残念ながら、よそよそしく、愛が希薄である。いかに、他人を愛していないか、この連鎖が家系にある。

 

神経症とは、もはや自分でハンドルが切ることができない暴走車や列車のようだ。しかし、結局は、なにも中身はない。無意味なのだ。たしかに目的論や潜在意識や色々な意味はあるかもしれないが、他人も自分もただひたすら迷惑で寒いだけで、から騒ぎでしかない。

 

そのままで、狂気の沙汰だと気付かずにいるのは大変だ。

 

いかに、人が、のっとられやすいか、思うようにいかない困難があるか、だ。

 

しかし、神経症であれ、余命が宣告されようが、死を覚悟しても、「今日、明日が最後だとしてもなにをしたいか、すべきか」を、避けようがない困難のまま、やりつくそうとするのが、あるがまま、「なりきる(being)」ということで、コントロールしたり、排除したり、常識や気合いや思い込みの「人工物」や「気分」に、のっとられないように、むしろ、困難を認めた主体的な生(being)が「問題を持つhave」となり、いままで支配されていた奴隷から、生を選択し、創造的になれることをv.フランクルは示唆している。森田正馬に似通う点である。

 

神経症は、他人のものも、自分のものも、基本的には、無視したほうが、放っておいた方がよい。目的論的にも疾病利得的にも、周囲や自分を無自覚にコントロールして、身勝手な欲を晴らしているからだ。これは、性欲を満たしたり、食欲に置き換えたらいかに、最悪で、汚らしい行為か分かる。自分が主観的に、性欲や食欲を満たすために、周りを巻き込んでいたら、最悪以外にあり得ない。神経症は、心的欲求不満で、周りや自分を食い物にする。負の側面がある。良い側面は、その強い心的欲求が、ほどよく、創造に生かされた場合だ。不安神経症強迫神経症者は、周りを巻き込んで、自分に意識を引き付けたがる。病気によって評価を得たがる。

 

リビドー的、心的欲求が、「余ってる」ときや暇な時や、なにか刺激があると、それが誤作動が起こりやすくなる。だから、やはり神経症者は、なにか、外交的な、現実的なことに心的な欲求を満たす必要があるだろう。心理的、観念的すぎて、支配され、のっとられやすいので、森田が、治療に、雑事をやらせたのは、間違ってない。いかに、心理的、観念的、感情的になりやすいかは、念頭に置く必要がある。神経症者は、事実や現実から逃げる癖があり、理想に支配されやすい。

 

森田正馬は、症状を夢、悪夢にたとえている。神経症者や強迫神経症者は、まさに、現実に全く目覚めないで、悪夢を生きて、その悪夢を他人に説明したり、治したりしようとする。

 

しかし、観ている夢など、他人も自分もわかるはずがない。「常人は夢を見てもすっかり忘れている」のが、神経症には、分からない。

 

まるで神経症者、強迫神経症者は、夢の世界の住人になりやすいのだ。これは、病気というより、なかなかの変人ではないだろうか。

 

私は、この「事実」に気づいたことで、いかに、自分が「滑稽」か理解した。だから、神経症を、サリヴァンが、ユーモアで切り抜けることを推奨した理由が分かる。実際、神経症は、たんに苦しいが馬鹿馬鹿しいからだ。いかに、支配されっぱなしのくだらない人生を、他人に自慢できるはずはない。

 

この世には、物欲、食欲、性欲まみれどころか、あまつさえ、心理的な欲求不満がたくさん溢れかえっている事実に気づくべきだろう。心理的欲求不満は、際限がない。自己も周りも欲求不満で、台無しにする場合がある。私がそうだった。いまは、それがいかに馬鹿馬鹿しいか理解できる。もう私は「夢の中の住人」でいた、人生をきちんと理解した。