心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

心と体の結びつきから生き方を考える

身体と精神が結びつかない人がいる。

 

ゆえに、身体的な「全体性」のために、表現を生きる必要があるか、考える。

必ずしも精神的に向き合う必要があるのか。ストレスに対処する、身体的な妥協を、遊戯や箱庭でイメージを生きることは、一定の効果はあるが…

 

身体の、精神化。精神的な把握をしたい。

 

そもそも、心身症は、心や身体による「発散」ではなく、表現を生きる、第三領域で考える。

 

精神的なことを、身体化したり、心をカウンセリングしたりするのが答えではないし、容易ではない。身体表現性の人は、その短所が長所にならずに、身体的な妥協しかできない。

 

心身症やヒステリーや境界例や、表現性障害は、心と身体が不一致で、体の一部が、異物化している。「物語る力」が重要になる。

 

だが、フロイトは、一時的に、こういうカウンセリング的な、お話し療法で、治ったように見えるのは、一時的に過ぎないという。ユング的な、個性化の問題を孕んでいるからだ。

 

内的な感覚に、「気付けない」がゆえに、身体と情動、体と心の和解、アレキシサイミアやがあるとし、心身の和解「という安易な物語論」に結びつける。

 

医学は、失われた、心を取り戻し、心理学は、むしろ身体を取り戻すというのは、患者より、医学や心理学の立場の身勝手な、「解釈」に過ぎないのではないか。

そういう「全体性の回復」がまるで、信仰されているかのように。

 

 

人は、そもそも、乖離や分裂は、不可避であるという、現実性を認識する。それを統合的に、分裂や解離を否認するのがむしろ、神経症ではないか。(心身はむしろそうなるのだから、ではどう生きるか?の方が大事。それ自体、心身の乖離や不調和は人は避け得ない。)

 

発達障害が、核にある。想像力や空想や、内面や精神に、気付けないし、自己認識が持てない。「主体」がない。確立できない。自分の体を意識するモニターが機能しない。むしろ逆に、自己反省が過剰になれば、神経症に陥る。「主体」となる困難には、いわば、イニシエーションとしての、儀式的な、意味や、変容が必要になる。それは、切断と再生。

 

動物的な人や、大人になれない身体乖離の子どもたち(成人しても退行的に大人になれない人もいる)が、現代の稀な「精神病」を嗤うのも、裏を返せば、精神の確立された自我や大人を嗤い、侮蔑し、「精神」を認めないから、認められない不確かさが、「精神」にはあるからだ。

 

目に見えない「霊」や神やスピリットや神話を、信じている現代人はいない。動物的に、未分化で、主体がない方が、「精神」にかかわらないで済む。しかし、否認せずにはいられないくらいに、人は、精神や目に見えていない感覚に、いくらでも突き動かされているのだ。なにもいきなり霊や神を仏を信じろ、というわけではない。むしろ、それを目に見えないが、たしかに存在するものとして自覚した時点で、ただの、物理的な把握と、客観的な認知にすぎない。

 

むしろ、神や霊や、人智を超えたなにか、は、感知されないがゆえに機能しているのだ。精神を退けようとする精神の態度であって、身体と精神の調和は関係ない。それは、精神が精神を否認する結果としての身体なのだ。しかし、主体が、苦悩、葛藤を、認識するのは難しい。人は、一時的に精神病的になる。動物的になりたいという退行と、大人でなければならない自我の葛藤やアンバランスが、生まれる。

 

残酷なイメージのイニシエーションや切断が機能しないで、動物的次元に、退行してしまえば、身体表現性の問題や、身体化、行動化の規制がかからないままで、自我は、それを自覚しないで済む。そこには、自己成長にかかわる、「悪」の問題が必ずある。死や酷いイメージが付きまとうしかし、その過程をなんとかして乗り越えていけたときの、自我は、それまでとは違う。

 

イニシエーションがない時代の、退行はむしろ必然か。そういう「小児科」的な病や、発達障害的な、「動物園」の次元では、「精神(病)」や「大人」などは、たんに、笑われるだけなのかもしれない。精神や悩みや大人や悪の世界に、切断して、参入することがない時代的な宿痾なのかもしれない。

 

ストレス因子を退けたり、薬飲んでみたりするより、むしろこういう人たちは、そのストレスに立ち向かうべき自我や精神が生まれないし、必要としない(現代社会は死や残酷や自然に直面しづらい)ために、あらゆる症状の身体化の、未分化でも生きられるくらい豊かなのかしれない。下手に精神的に自立しても、今度は精神的な困難が生まれるくらいなら、「体に肩代わり」してもらう方が良い、という人の妥協かもしれない。

 

たとえば、ヒステリーや心因性嘔吐やパニック障害、社交不安障害や、身体表現性障害や、過敏性腸炎なども、主体の問題としてみるならどうか? そういう、小児から思春期や若年層にありがちな、(中年も、遅れてきた「思春期」的に、そうなる場合がある)

 

なにも、現実から逃げずに、主体を、確立したら治るとかではなく、そういう身体的な癖は、なかなか抜けない物だ。症状自体を治すより、裏のメッセージを見る。つまり、無意識からの欲求だ。自己発展や、現実否認の態度や、なんらかの生き方の変容や、ストレス的、トラウマ的な現実への、態度変更が促されている。上辺の病気を治すより、イニシエーションは、現代は、そういう身体的次元で現れるのかもしれない。

 

「精神」や「魂」の要請は、それをシグナルを送っている。病は、たんなるシグナルでしかない。個性化を見る時、病を治すのは目的だが、「魂の目的」や「魂の要請」は、「病を治す」のではない。病を治すのなら、また退行、逃避すれば良いだけだ。そういう身体的な患者たちは、精神や魂や精神的な発達や成長を、拒む「精神的態度」がある。

 

認められない現実や自分に向き合うか、「過敏性腸炎」に悩むか。

認められない現実や自分か、「パニック障害」なら、明らかに、自分や現実に直面するより、「肩替わり」だから、楽だ。「病気に悩んでいる」ほうが、心理的な負担が軽いし、生きているのに「悩みなど無価値」だと自我が判断してもおかしくない。

 

失恋や性的な被害でパニック発作になった人が、であるか? 現実の負荷を自我が統合できない「異物感」が、身体化するのだ。

 

そこにもやはり、大人になる上で避けられない、苦悩やトラウマ的事実が精神的に否認されている。たかだか、人に会う、会社に行く、バイトに行く、さえ、現実や、異物に出会うのだから。家族さえ。現代では、簡単に、家に退行できるが、イニシエーションや切断が機能しないまま、母性的な世界に閉ざされた人も多いだろう。

 

精神も、熱湯にゆっくりしか入れないように、精神は、ゆっくり発展し、否定を認められるように、発達していくのが理想だろう。

 

そういう「認めたくない現実」は、誰にでもある。この困難を、生きるという課題が症状の、シグナルであり、隠されたメッセージなのかもしれない。

 

身体化しているうちは、「精神病」にならずに済むのかもしれない。一長一短だ。身体化しているなら、精神的に悩まないで済む。悩む人が内面を持つとは、それなりのリスクだ。

 

だから、やりたくない仕事や対面のある、家族などの問題が、身体化でやり過ごすのは、現代人の避けようがない妥協なのかもしれない。身体化の病気の人は、症状に体の違和感に肩代わりさせながら、本格的な「発症」に至らないで済んでいるのだ。だから、当の本人が、「本当にどうしたいか」は、これらの説明を読んだ上でやるしかない。

 

カウンセリングを受けたら、こういう人たちは、精神的な次元に参入するわけだから、河合隼雄が指摘するように、「一時的に分裂的になる」のは、当たり前だろう。

 

それまで精神を否認してきた人が、精神的に直面する「現実」などより、過敏性腸炎(身体)に「悩む」方が良い。

性的な被害、失恋や会社に怯えて辛いなら「パニック障害」に「悩む」ほうがよい。

 

こういう人は、「病気に悩む」が、「内面的に悩む」ことはない。それをしたら、まず、否定的な精神は避けられないからだ。

 

だから、自分が、どうしたいのか?は、よくよく考える必要がある。

 

河合隼雄は、それを説明して、大抵は、「病気をやり過ごしながらそれなりに生きていく」という人が、ほとんどだそうだ。

 

カウンセリングすると悪化したり、医者やカウンセラーに難癖をつけたり、転移をするのは、防衛機制なのだ。

ほとんどの人は、ユングや心理学者がやるような、イニシエーションや分裂病的なイメージの困難さや、自我や精神の確立は、大変だ。ほとんどが、生活に追われているわけで、容易な作業ではない。

 

人は、「病気について悩む」から、ほとんどの人は、病気を薬や対症療法なら、それで良いとしているし、それが答えなら、それでも良いだろう。

 

なにも、自我の無意識の要請にすべて応える必要があるかは定かではない。たとえば、無意識が、実はピアニストになりたかったために、表面上、パニック発作になった人が、自分は会社員として死にたくない!と、それに気づいたとして、今度は、サラリーマンを辞めたり、仕事をしながら、ピアニストを目指す「困難な自己実現」は、楽しいばかりではないのだ。

 

もっと問題なのは、ピアニストになるとか、YouTuberになるとかも、実は、逃げのための口実になる場合がある。だから、バカンスのような休暇やリフレッシュや風俗的な遊びや祭りで気分転換が必要なのだが、ほとんどの人が、思い詰めるほど、現代人の生活は淡白で、リフレッシュなどする暇などないのではないか? 

 

 

ヒステリーになった妻が、実は不貞の夫と別れて、第二の人生や自己実現を目指すにしても、それは、容易な自己形成をお手軽にできる問題ではない。現実的に、また再婚や生活や趣味が生きがいになるかは、思いつきでは簡単ではない。

それだったら、人は、ほとんど病態に、退行するか、妥協しているのがほとんどだし、今のままより良くなって欲しいわけで、総入れ替えを望んでいるのは限られた人だけだ。

 

 

 

無意識の要請に、魂や前世や神の意志を受けとめて、生き方そのものをなにがなんでも形成するのは一部でしかない。

 

そうでないと、むしろ「社会(やりたくないことをやって生きざるえない人)」がいないと困る。むしろ、芸術家は、そういう人たちの、無意識の集合的な魂の課題と繋がる必要もある。利己的な芸術家ごっこも自我の逃避的な欲求である。よくクリエイター気取りもしたくなるのも、葛藤や劣等感を避ける機序でしかない。

 

問題は、医者や心理士が、押し付けがましい「全体性の回復」を、望まないことだ。「望む」のは、あくまでクライアントである。そういう人たちが、必ずしもアーティストになる必要はない。

 

たとえば、私は、パニック障害の患者に出会ったが、彼は、病気を治したい、普通に暮らしたいが、できないのである。彼は、たんに普通に暮らすことが、アーティストより、切実でないだろうか。絵を描いていないと自分ではないという飢えや、歌を歌わないと自分ではない、というアイデンティティの人は、無人島に行ってもやっているだろう。それくらい必然的なアイデンティティなのだ。そういう人は一部だ。

 

だから、私が、いくら客観的に分析が優れていても、そのクライアントの生き方やテーマを提示できるとはいかない。「あなたは音楽に向いていますね」とヒントは必要ない。

 

他方、発達障害的な傾向から身体表現性障害の心気症的な患者に、「自分は統合失調症でアーティスト肌で頭も良い」とアピールされたら、その自己認識を、一時的に認めるしかない。パニック障害の人が、さりげなく、家で実は、「ピアノの練習をしていて」とか、心気症の人が、「ギターの練習をしている」と言ってくることはよくある。カウンセラーは、よく話を聞かないといけない。「最近、花や植物を見るのが好きだ」とか目覚ましく精神科医顔負けの心理学の知識を手に入れている人に、「あなたは音楽家や心理学者やアーティストとしての人生を生きるテーマを背負っている」などアドバイスしてはいけない。世の中にはそんなにアーティストになりたい人や、アーティストだけがいる必要などない。だから、アーティストにならざるえない使命や必然は、限られた人にしかない。それは、無意識から集合知や感覚を、取り出すことに優れた人生である。みながみなアーティストになるとは、必ずしも正しくはない。しかし、ユングは、そういう傾向がある。

先程の、パニック障害の人のように、もしかしたら、本当に、ピアニストに目覚めるパターンもあるが、彼の自我は、やはり、友達と遊びに行ったり、普通に暮らしたいのだ。だから、魂が、ピアニストとしての創造的な人生が必要かは、クライアント次第だし、どのようにいくら優れた資質があろうと、それを「魂の要請」だから、と心理士や医者が早合点しないほうがよい。アーティストになっても悲惨が必ずしも避けられる保証がないのは、古今東西の、アーティストの悲劇や人生を見ればわかるだろう。自己実現やアーティストだから、楽しく生きられる保証などない。

 

正解は定かではないが、少なくとも身体化する問題を抱えている人が、なんらかのオーダーを、受けている人なのは、言うまでもない。生き方は本人たちが、考えるのである。