心の書庫

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Q.発達障害はカルマですか?→答え...

 

 

A.発達障害に関しては、実は、前世より、遺伝的素質です。

 


スピリチュアルを持ち出すなら、ある意味では、かなり現実的で卑近な「カルマ」です。時系列的にも、かなり近い時間的なもので、わざわざ「前世」を持ち出す必要がないと考えています。

 

要は、遺伝的なカルマなので、わざわざ「前世」を持ち出す必要はない、親子関係や社会との関係性に属する問題、現代病みたいなものです。

 

わかりやすく言うなら、親、「社会」と言う親、「思い込み」と言う親、「上司」と言う親、「先生」と言う親に、我々は、ありとあらゆる「親」に挟まれていきています。

 

冷静な人は、ここに意識的かつ理性的な「距離感」を持てます。だから、対人関係に、へんに飲み込まれたり左右されづらいです。これは、人間的な成長により、培われるはずですが、現代人は、まるで、学習していない。思考過剰や妄想という「親」を身体化して、不自然な状態です。そこに「適切な距離感」が、自分や他人にありません。常に「不自然」で「不安定」な対人関係になります。

 


そもそも、大切なのは、意識と身体の健全状態ですが、発達障害者などは、親子間で、わからないのです。「親が悪い」というより、さらに親の親からさらに親も、無意識になっているクセや偏りです。それがカルマ的に子に受け継いでいる。前世と考えるには、おかしいです。脳の障害にしても、「前世」なのかは、慎重に考える必要があります。

 


さて、調和とは、「無条件」です。すなわち我々が、通常、愛というものです。

 

発達障害的なコミュニケーションは、それとは正反対の過剰意識です。競争理念や資本主義で生き残るための、思考過剰な生存システムに適応せずにはいられない反社がもはや息を吸うように刷り込まれているので、赤子も無意識にそれを察してしまいます。

 

だから親がいくら「やりたいことを素直にやりなさい」と言ったところで、子どもたちは、無意識に、そんなんで生きていけるわけはないと、「言語外」から身体化していきます。親や社会や、幼稚園などで、もしいじめをきっかけとして、不安定な母子関係に晒されている子が、さらに、「対人関係に過剰な攻撃性」を無意識に培うはめになります。それを、無意識が抑えきれなくなると、身体的なはおかしな言動に繋がります。必ずしも、怒りや憎しみや攻撃性とは、限りませんが、理性で抑えきれないなんらかの、反射が癖付きます。だから、必ずしも先天的な病気よりも、学習の失敗や機会の損失、立ち直りがないまま、ひたすら「失敗の学習」を身体的かつ無意識にこびりつき、さらにその、凹凸の、凹である欠点(大抵の場合はコミュニケーション能力のひくさ)をカバーするために、能力主義や偏った力に陥る。発達障害だから、能力的に、全部ダメになるわけではない。

 

 

 

その、偏った、意識状態は無意識も含めて遺伝的に蔓延しています。みな、思考過剰なので、身体的な対人関係をもてない。だから、焦る、苛立つ。さらに、思考過剰になり、なんとかしようとするが、そもそも対人関係の安心、安定をしらないから、コミュニケーションもますます、嘘やスキルに偏り、ますます不自然、不調和になります。どんなに無理矢理、呼吸や自立訓練や薬を飲んでも治らないのは、そもそも、そんな関係性を、現代人は損失しているわけです。それはみな「おかしくなる」わけです。

 

とくに子どもの場合は、基本的にどの国も母体との関係性や結びつきが強いので、母親でさえ、その親からなんらかの「過剰意識」や不安、恐怖や、思い込み、教育理念や思い込み、先入観の「思考過剰」状態です。

 

健全な母子一体化もないままに、メディアや外界に晒されてしまいます。

 


そこから、いきなり、社会や対人関係に巻き込まれるため、健全な意識状態を知らないか、基盤がないままに、離乳し、やがて子どもになり、そのまま明確なコミュニケーションを学ぶことがないまま、テレビやゲームやスマホや、資本主義の価値観や、親、社会の思い込みや、なにより、本人たちの意識状態が、常に「思考過剰」に陥ります。

 

そうしたら、ショートしたりバグるような、おかしな意識状態が、無意識に入り込みさらに、無意識は必ず身体や脳と結びつき、妙な言動や、コミュニケーションの問題に齟齬をきたします。

 

さらに、現代人は、明確に人間としてのコミュニケーション能力を開発する前に、英語の詰め込み勉強やメディアにどっぷり浸かり込み、脳や身体が十分に発達しないままバーチャルにのめり込みます。

 

私は、かなり驚いたのは、日本の子どもたちがゲームをすると、かなり高い確率で、死ね、バカ、殺す、などの汚言症チックを多発してしまうことでした。つまり、チャットで「コミュニケーション」ができない。これは、病気とかカルマというより、そういう子たちが、コミュニケーションを獲得しないまま、能力主義や学歴や親や社会の「思考」に完全に同一化して、無意識が暴力に支配されているのです。

 

この無限の攻撃性の由来は、100%、母子関係に問題を抱えています。安心な母子一体化をしないので、その「憎しみ」があるのです。それが、無意識に身体化して汚言症につながります。治る場合もありますが、なにかのきっかけで、コミュニケーションに躓くと、いわゆる「大人の発達障害」になります。

 

大人の発達障害の被害者たちは、思考過剰の、不安定な母子関係や社会により、能力主義に陥っているからです。だから、エリートなのに、発達障害は充分にありえます。発達障害だから無能なのではなく、むしろ発達障害のまま勉強ばかりしたりしてきた。趣味はゲームくらい。そんな人が現れてくる。

 


なので、スピリチュアル的に説明するより、現代人の広範囲な潜在的なカルマ(テーマ)なのです。

 


不安定な社会や資本主義やテクノロジー過剰や、思考で雁字搦めにする意識過剰状態と無意識で結びついた、刷り込みにより、身体化します。

 


これを、「治す」というより、訓練はできます。

 


すなわち、意識状態をストップして、物事に向き合ったり、人と対人や、一体化や調和を身体化することです。

 


現代人は、無意識=身体が、意識過剰、身体過剰に陥って、身体と調和的なリズムが失われています。

 


当たり前ですが、自然界や宇宙には、「発達障害」などはありません。

 


本来ありえない、過剰な意識状態や、身体=身体の、宇宙や自然を通したコミュニケーションや人間関係を知らなければ、おかしな育ち方をするのは、当たり前です。

 


現代人の養育はてんで出鱈目です。意識と思考過剰や、小さい頃から資本主義で「勝ち組」になるための養育を、「頭で考えて」ばかりです。そんな親が、さらに子からさらに子に、受け継がれてきた。かなり、カルマの質が、現実的レベルで「近い」カルマです。前世とかではないです。

 


戦前、戦中、戦後、そして現代人は、あまりに忙しすぎました。調和や豊かさを身体的に、感じられないので、過剰な思考や妄想に同一化しています。

 


本来、意識は「流れる」ものです。

 


発達障害が治るか? 私は医者ではないので、責任は持てません。

 


しかし、思考や意識を、一旦ストップする訓練や意識によって、理性や正しい心理学や仏教により、「意識」に対する「気づきの意識」、いわゆるアウェアネスな、意識過剰意識に対する「距離」を学ぶことができます。これは、瞑想、ヴィパッサナーなどの訓練で可能です。

 


意識の異常や過剰に同一化していれば、そのカルマは、勝手な身体化をします。それを防ぐために、本人が、変な意識状態や、思い込み、親、学校、社会の刷り込みから、一時的に、気づきの「あいだ」を生み出すことはできます。負のカルマに、横槍や防壁をつくり、新しいバイパス、より健全な思考の「種」を撒く訓練はできます。つまり「負のカルマパターン」から抜け出せるかはわかりませんが、「違うパターン」「良いカルマの種」を撒く訓練はできます。

 


しかし、それが、すぐに治るかの医学的な可能性はわかりません。私は、無意識になっている身体化した発達障害者が、悪い意味で自分に気づき続ける過度な思考過剰意識状態があると思います。

 


たしかに、私たちも、自意識過剰では、「おかしな」感じになりますが、あれが、発達障害者は、無意識=身体=親子関係の基盤にあるため、なんら普通の状態さえ、「おかしな」感じで、とくにコミュニケーションの問題を抱えていると思います。これを、訓練できますが、治るかはわかりません。

 

いずれにせよ、カルマだから仕方ないとか思い込むより、いくらでもやりようはある、ということです。

 

発達障害は、置いて置くとして、とにかく言葉に頼らない、無意識的な、身体的調和を、対人関係や世界から学ぶことができ、「再学習」できれば、「負のカルマ」は、違うカルマを紡いでいけるはずです。

 

付記 後記

 

ちなみに私は「身体化」と言ったが、ある意味では、身体さえも、自我さえも、ほんとは「在る」わけではない。

 

仏教では、身体や自我を否定的に捉えているが、私は、必ずしもそうは思わない。自我や身体を「悪」と決めつけるようなエゴが「悪」を生み出す萌芽であるに過ぎないということだ。だからといって、自我や身体に「とらわれる」というのが問題であって、それが、三次元的に、ありうる、というのは、必ずしも「悪」ではない。あくまで身体や自我は、フィルターなのだと自分は思う。だから、善とか悪とかそういう問題ではないし、身体や自我など要らないとか勘違いしてはならない。スピリチュアルに偏った人は、無意識に、身体に対して、精神を上に置きたがるが、その精神さえ、定かではない。たんに、一瞬、一瞬が、現れては消える、「束の間の夢」の連続に過ぎない。その根本は、そもそも、なににもとらわれず、ないのだ。それを「観る」。観てそれ以上はしない。そこに意味や解釈をしない。身体や自我を否定的に「考え」たりはしないのだ。