心の書庫

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神経症は「残念ながら」必ず治る

神経症の特質に、精神交互作用と、ある特定の身体器官への拘りがある 対象リビドーを見失って、ある感覚器官に集中がいく。

 


この場合、この感覚は、性感であるとしたのは、フロイト的な分析だが、いまは分析はよい。

 


その神経症の悪いことばかりではなく、その集中がもし、建設的な努力に置き換われば、どれだけ良いか、と言う話である。

 


神経症者は、間違った感覚を、身体や気になることを始めると止まなくなる。ひとしきり性的な、心的な発散をすれば、満足する。それを学問や楽器やスポーツに置き換われば絶大な力になる。神経症者はリビドー的な欲求が強いが、それを、現実的努力に変換できていない。だから、やたらとナルシシズム的に、自分の感覚器官に集中してしまうが、集中とは、対象がなければ発散されない。

 


神経症の人は、心的エネルギーが高く、自我をさらなる高みに向かっていきたいが、現実が追いつかない場合がある。対象愛を失ってしまった場合も、ひたすら無意味な身体器官への精神交互作用をしてしまう。

 


ならば、その集中を、もっと「現実的に」置き換われば良いと言うのが、方法論である。心的エネルギーが強い神経症者が、「神経症をどうにかしたい」とするほどに、神経症は固着し、栄養を蓄えていく。「神経症を気にしないために、やるべき課題をやりたい」と言う発想がないと治らない。つまり、あくまでも神経質を治すのではなく、神経質のまま「課題」をやるのだ。間違っても、治すための行動をすれば、それは「治らないための努力」に逆説的になる。なぜなら、意識は集中する対象が大きくより強固になるからだ。心的エネルギーを、理想であるべき姿にもっていき、つねに、そのためにできることをやる。「病気のイメージ」ではなく、「ありのままでいながら、やるべき理想へ取り組む自我」を人は、生み出せる。

どんなに、迷信やスピリチュアルを信じない人も、強制的に、蝋燭の火ばかりを見るようにしたら、その人の意識は、蝋燭の火しかなくなる。意識がそうやって創っているからだ。神経症の人は、そうやって不可抗力的に、蝋燭の火を見るように、症状や特定の感覚器官に集中する。心臓神経症の人は心臓部、パニック発作は胸苦しさに。しかし、身体の感覚器官に、健常者も意識すれば、気持ちが悪いのは当たり前である。

 


だから、治したいなら、理想自我の欲求を叶えるために、エネルギーを現実的に晴らす必要がある。すなわち「努力」である。

 


しかし、人は、なかなか努力をしたがらないし、リスクを恐れてしまう。世の中が、資本主義で、社会構造や派遣法のもと、非正規雇用が増えた、コロナ禍で、云々かんぬん言う。

 


間違っていないが、では、なにもしないと言う「理由」にはならない。現実的にやれることあるのに、「やらない理由」だけは、心的エネルギーに注ぎ、「毒親」や「病気」や日本社会の問題を追求する。「変わらぬ現実の理由」や病気だけは、心的エネルギーを注ぎ込むが、「変わっていく自分」には目もくれない。

 


しかし、それで、「変わった」のか。変わりはしない。なぜなら、批判は正しくても、「現実的行為」をしていないからだ。神経症者は、とくに現実を軽視する。だから、なにがあるたびに、病気の言い訳や周りの言い訳や批判意識だけは発達成長しているが、人間的には発達していない。

 


神経症者は心的エネルギーが強いから、皮肉にも身体症状を、「創っている」ことに気づかない。実は人間には、現実を「創造」する力がある。悲惨な社会をより良い世界にする力がある。社会構造を変えようとしない大多数の神経症者を支配層に推しているからなにも変わらないのだろう。

 


なにも変わらないといいながら、他方、そうやって「現実を創っている」ことにまるで気づかない。かりそめの無力感や憂鬱に苛まれているが、「自分には実は力がある」と悟ると、自立して、依存ができなくなるからだ。

 


だから意地でも「自分は変わらない、世界は変わらない」としながら、せっせと「変わらぬ現実を作っている」のだ。だから、裏返せば、良い現実は実は作れるし、完全に自分は無能ではないので、言い訳ができなくなる。「現実的に無力な自分」を形成すれば、自分を守れる。

 


「残念ながら」神経質者は無能ではない。おそらく、なにひとつ「力」がない生命はいない。「力がない」ことにすれば、居直ることができる。しかし、気づかないふりをしていながら、「悲惨な現実」だけは、きちんと「作っている」。

 

治したいなら、自分の力を信じて、理想のための現実的行為を重ねることだろう。「治らないための努力」をしている自分に気づくべきだ。Vフランクルが言うように、精神には態度価値がある。精神は、自分の態度を創造できる。神経症は「不治の病」ではない。世は無常、無我であると言わなくても、いかに神経症が、たんなる反応にすぎないか、わかるはずだ。人間には、ホメオスタシスという恒常性があるだけで、変化していないわけではない。生まれながらの、なにも変化しない生命はいない。神経症者は、残念ながら「治らない」を創っている。