心の書庫

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神経症をルサンチマンから考察する

神経症者をルサンチマンから理解する

 

 

 

 


神経症性格者には母子一体感が悪いか、そのため基盤がない。とにかく不安で、そわそわしている。

神経症者は、病気ではないのに、やたらと病気を話す。しかし病院に行っても重大な器質性疾患はない。自分は大丈夫になると、いよいよ依存体質が治り自立しなくてはらなくなる。だから、疾病利得のために、病気でいようとする。依存や不都合な欲求を肯定したり、隠蔽のために、病気を使う。

 


愛は条件じゃないのに、愛を外面的な価値と勘違いし、勘違いの「愛される努力」をしたがる。

 


神経症者は、とにかくそういう「心的現実」を無視して、愛情欲求不満を感じ易いのだ だから、へんに愛情欲求のために頑張る。

 


しかし、人は無条件だからこそ、愛し合っているし、案外テキトーで性格に粗があってもよい。

vフランクルは、精神分析学的な意識化が大事だというが、無意識は結局無意識に戻るべきだとしている。

たしかに神経症者は、心的現実を重視するあまりに、頭でっかちな外面的な価値に依存し、いつまでも「無心」になれない。神経症性格者は、外的規範や価値が大好きなのは、それで人から認められる自分しかないからだ。

 

引用→
いっさいの貴族道徳は肯定から生まれてくる。これに対して奴隷道徳は否定から生まれてくる。なぜなら奴隷道徳の基礎にあるルサンチマンをもつ人間にとっては、否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定こそが、奴隷道徳の本質的な条件なのだ。道徳の系譜 引用

 


このように、神経症性格者のルサンチマンや拠り所のなさは、畜群と化して、道徳の群れを生み出す。 なぜなら劣等コンプレックスに向き合わないために、手軽に人に優越感を得るのは、「道徳」だからだ。

 


自分にとって大事なのは、自分そのものであるにもかかわらず、外的規範で勝とうとして、理想になれない葛藤を避けようとする。

 

→引用
すべての貴族道徳は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転—自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向—こそが、まさにルサンチマン特有のものである。道徳の系譜

 


まさに、これは、神経症性格者のルサンチマンではないか。なにより、自己自身が大事な癖に、やたらと道徳や正論を振り翳す「畜群」。

 

引用→
道徳における奴隷一揆は、ルサンチマンそのものが創造的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によってだけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。引用

 


このように、神経症は、自己保身のために安易に自分自身を「善意」に置き換えてしまう。

神経症性格者の自尊心は、劣等コンプレックスゆえに、なんら根拠のない「見下し」「根拠のない優越感」神経症性格者は、自身の優れた資質を、あり得ない心的な理想で補填しようとする。

 


善人のイメージや愛される自身を理想自我を勝手に生み出す。

 


ありのままに湧き上がる自己自身の自己肯定感がわからない だから、いちいち自己肯定を、自ら湧き上がる内発性より、「周りから愛されされる」奴隷根性を見たそうとする。

 


しかし、神経症性格者は、きづかないで、いかに自分は苦しみ頑張って生きる「善良な市民」かを疑うことはない。

 


ルサンチマン人間の神経症性格者の特徴的な「今風」の振る舞いは、バズったり、再生数や、評判に左右され、自らの価値を持たない。

自らの価値がない人は、外的規範、全体主義に加担する。

 

引用→
そもそも禁欲主義的な生というのは、一つの自己矛盾である。そこには比類のないルサンチマンが支配しているが、これは生のある部分をではなく生そのものを、生の最深かつ最強のもっとも基底的な諸条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志とルサンチマンである。ここでは、力の源泉を閉塞するために力を利用するという読みがなされるのである。ここでは、生理的な発達そのものにたいし、とくにその表現や美や悦びにたいして嫉妬ぶかい陰険な眼差しがそそがれる。引用 道徳の系譜

 

 

 

このように、日本人が、必死に他人の幸せに躍起になるのは、相対的な価値しか知らないからである 神経症性格者の特徴的な日本人の中の日本人の性格だ。正義感や道徳は見せかけであり、不快な自己自身を認めることはない。この我慢する神経症性格者は、周りより我慢することで優位に立つ。

 


禁欲的な性格のくせに、そのくせ、他人は、我慢しているのに、おまえらが許せないと価値転換しようとする。

 

→引用
すべての貴族道徳は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転—自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向—こそが、まさにルサンチマン特有のものである。引用

 


まるで、自然に咲き乱れ花や、流れ落ちる滝のように、すべての貴族道徳は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでる。

ことが、神経症者には分からない。

 


だから、癒しい心的現実を必死に擬装し、自己肯定を歪んだ形で叶えたがるのだ。神経症を治そうとするなら、コンプレックスを自覚し、自己自身を否定なしに、認められる自己肯定をできるようになるしかない。神経症の欲求はあべこべだ。「自己自身に従わないこと」で、価値を認められようとする。これが悲劇になる。神経症を治したいなら、人から認められるためのに、自他を否定する自分から自由になるしかない。