心の書庫

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具体的になる自我

神経症的な、理想的自我を持ち、母への愛情要求が強い人は、「〇〇あるべし」に拘る。心的な病気になりやすい。(神経症は基本的に心因である)

だから不安になる。しかし、具体性がなく、要求(クレーム)が強いのは不健全だ。超自我が、「叶えられないおまえはダメ」ではく、「叶えるためには現実的なことをやる」「万一、叶えられなくても仕方ない」「無職や借金や病気になったらどうしよう」ではなく、「問題があったらきちんと長い目でやり直しをしよう」などを「具体的」にやる。

 

私は、赤面症や醜形恐怖やらあったがら治ったというか、気にしなくなって良い意味で忘れた。それは、外見にこだわらなくても、人は大丈夫、必ずしも外見では判断されないと経験から知ったからだ。

つまり、自我がさらなる高次の自己実現をしたから、症状が統合され、問題はなくなったのだ。心理学的にはそのような説明になる。

 

神経症は不治の病ではなく、「無意識からのクレーム」である。クレームをどう対応するかは、あくまであなたなのだ。

いまは広場恐怖、不安症、社会不安がある。その場合、社会的な自尊心やQOLは下がる。さらに、その状態で、神経症者は、あるがままが分からないか、理想自我があまりに強いせいで、不安定になる。自我は、安定したいが、不安定になって、理想自我を叶えるためには、わざと不安定になる時がある。そういうときは、コンプレックスさんを擬人化して、「毎日、やれることをやります」と軽く唱えるだけでよい。神経症的に超自我が罰すると、なんだかんだ葛藤や罪悪感、罪悪感が解消されるからラクになる。たとえば、下痢したり、頭痛したり、発作が起きた後、治ると自分いじめをして、マゾ的に、自分を許せるからだ。しかし、これは、結局は、「自分がありのままが許せない」許せないから、自分をいじめるループにハマる。無職や病気や依存はむしろ、生きていて仕方ない。「許せない」ではなく、許せる人にならないと、神経症はまず治らない。親が許せない、自分が許せない、「底辺の自分が許せない」と、神経症的に、自罰する。結果的に、さらに悪化する。そういう人が、周りを許せなくなり、孤立し、さらに自分を許せなくなる。とにかく、ダメな自分や弱さを認める「穏やかな私」を育てる。安心するコーチがいないと、スポーツも楽器も習えない。

 

まず、こういう人は、正当な愛情を受けなかったこともあり、繊細さやなんらかの理由により、必要以上に、自分の要請が強くなる。つまり、ダメなんだから、筋肉ムキムキで金持ちで、病気せず、神経症を治し、あわよくば配偶者も手に入れて夢を叶え、人間関係を構築し、借金もせず、きちんと恋愛をし、などと、ありえない自分をコンプレックスが刺激される。しかし、擬人化の手法で、「ありのままの自己」を、こういう「無限欲求」を、「悪質クレーマー」に擬人化し、きちんと自我は対話すべきだ。「そのような欲求は私ではありません」もっと言えば、「情報化社会におけるコンプレックス産業における悪魔」と言ってよいし、「日本人特有の人目を気にして、子供をきちんとみない悪魔」と擬人化や悪魔化をしてよい。自我は、きちんと「調停役」をしつこく繰り返す。どんなことにも、運や偶然があり、努力で叶うことがあれば無理なこともある、とすれば、わざわざ違う人間にコンプレックスを感じる必要がなくなる。コンプレックスが強い人は、神経症の度合いも強い。

コンプレックスを向き合いどうするかは、人の判断だ。無視してもよいし、仮にも目標があるなら、無意識からの要請に応えるために、きちんとやるべきことをやって、それが「自我の成長」と毎日毎日しつこく自分に言ってきかせる。「自分を許せない悪質クレーマーな自分」をきちんと把握する。Eフロムも、悪性のナルシシズムと呼ぶ。ある意味で悪い人格傾向が、自分の中にあることをしる。無機質、母子近親相姦インセスト、死への欲求、破壊願望だ。これを、いちいち、神経症者は、自分を責める。自分をせめるのは、自分の価値がわからないで周りに同調する、すなわち「全体主義」だと、戦後のフランクルやフロムなどは、ナチスに絡めて批判している。戦後の精神分析では、全体主義的、神経症的な悪質さが、いかに問題かを言う。

 

私は、ユング派ではないが、ユングは、基本的に、神経症は、地震みたいに不安定にして、「さらなる自我の統合」をしたいと思う側面があるという。私も、このポジティブな面も、きちんと見るべきだと思う。その場合なんども、きちんと「現実的な自我の発展」それは、ときに不安や辛さも認めつつ、かりに自分を認められない自分も認めつつ、真に「理想を現実」にする強さだ。これが、「精神」の強さであり、神経症の正の側面だ。実際にフランクルも、実存的観点から、神経症が「生きがい」にかかわることを指摘している。無意識は、ひたすら「成長しろ」というが、自我は、コンプレックスに脅かされると、病気になる場合がある。自我は、無意識に圧倒されないように、無意識や理想をどう扱うのかを考える必要がある。この「無意識に圧倒される感じ」が、病気に「主体」を奪われた自我で、とても不安定だ。四六時中、病気ばかり気にしてしまう。「主体」を取り持つには、自我の強さ、すなわち知性(適切な防衛機制)や柔軟さ、ユーモアによる、自己距離化である。「病気に乗っ取られる」自分をユーモアたっぷりに突き放したとき、病気は、突き放される。

 

たんに、神経症を治したいなら、たんに「生きているだけでいい。全部認める。」というが、口や頭だけで、そんなことができる人は少ない。だから、年齢や現実に即した「欲求」をなるべく自我は叶えつつ、叶えられないことも、認めつつ、絶えず成長することが、課題になる。「主体」的な、自己の創造は、ユーモアであり、現実的な自我の発展であり、神経症は不治の病ではなく、そもそも心的なメカニズムと知ることだ。あくまで、快感原則的な自我の「弱さ」を、どう取り持つかである。弱さと、無意識の「強さ」という、アンビバレンスな神経症性格者の特徴的な「弱気で強気」というものだ。弱気な人は、私は弱気というが、弱気なのに虚勢を張りたがる人は、神経症性格者の特質になる。内気な神経症性格者が、「内気な文系サークル」に入ってあっさり治った事例がある。しかし、自我は「強い自分」を認めたいが、実際は、内気なのだ。強気に応えるには、全ては無理だ。これが、現実化すると、ヤンキーと大人しい人が、イジメになったり、逆に親友になったりするが、必ずしも成功するわけではない。心的な「弱気」「強気」をうまく、調停役できるのが、自我のコンプレックスを認めつつ、成長できる大人だ。だから、大人は、弱い人を見ても優越感に浸るわけはないが、神経症性格者の特質は、弱い人を許せなくなり、苛立つ場合があり、それはコンプレックスを無視したいからである。その場合、無意識の要請が、「強い自分(無意識の)圧倒されている弱い自我」を自覚する。大人しい人が、外面だけヤンキーになる場合がある。しかし、コンプレックスは解消されない。ヤンキーにはなれても自我を叶える「大人」にはなれない。「そのままの自分でいたい」が「そのままじゃだめ」の葛藤に板挟みになるのではなく、常時、自我は、やることをやる。森田正馬の「目的本意」を徹底する。無意識の要請が叶えられないと、自罰するように、症状がでるが、無視してよいし、構うと精神交互作用で固着する。自我は、超自我エスの「突き上げ」に板挟みになりつつも、きちんと「現実原則」を、推敲する。「諦めるのも現実原則」。「症状が出ても治らなくても病気ではなく無意識のクレーム」と、知る必要がある。神経症は、病気なのか? 神経症は、過度な無意識の欲求不満である。フロイトは性欲を強調するが、もっと心的な意味がある。心理的な欲求不満「もっとああなりたいのに」「なるべき」が強い人がいる。精神的な欲求不満なので、それを、拗らせて、病気「のようになる」。だから、症状は無視する。無意識の要請や自罰を、対象化する。無意識の心的欲求不満が、強い自分を認める。クレームに反応しすぎない。それが「大人」だ。「もっと愛されたい」「認められたい」ばかりの欲塗れの「大人」はいない。幼稚な要求に叶えらる努力をしないかぎりは、そう易々と願いは叶わない。心的欲求不満は、幼稚さの表れである。