心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

心的エネルギーが強い人は現実創造力に長けている

私は、何でもかんでも、人間中心に考えて、すべてを人間が創っているという立場ではない。しかし、エネルギーが強い神経症者は、ある側面では、簡単に現実化する力を持っていて、それは、たいてい、自分の性格や症状である。

 

精神病院勤務の、フランクルがある患者と会話して、皮肉にも、精神神経症患者が言ったセリフが象徴する。「先生、わたしは、なにかをしようとすると意志が弱くなるんです。そう思わないなら意志は弱くないんです」このセリフは、一見するとギャグである。しかし、神経症の人は、わかるだろうが、弱気になる場面になると、ふと症状が出るのだ。こういうとき、心的欲求が強く、対象を、失ったエネルギーが、身体の状態を作っているのは間違いはない。神経症の場合はとくにそうである。人は、無心で生きているが、神経質の人は、「生きている行為を意識的に生きようとする」。自転車や車の運転は、慣れれば無意識でやれるし、自転車なんかは手放しでもいけるようになるが、この無意識が分からない。人は、意識すると途端にうまくいかなくなる。しかし、無意識にできるようになるまで、ある程度の意識づけは必要だが。

 

だから、裏返せば、神経症は、病気をつくる才能、少なくとも自分のことに関する現実創造の力があることを証明している。しかし、患者たちは、「症状にがんじがらめになって動けない」という。とは言え、その症状は、きっかけが外圧であれ、現在時点に再現しているのは、紛れもなく自分である。

 

だが、責める必要はない。つまり、自分に責任主体を掴んで、少しづつでも、より良い自分は、必ず創れること、自己人生は良くも悪くも創造にあることを、しることだ。

 

やたらと、治らないと食い下がる人は、まずは、疾病利得や目的論を、理解したほうが良い。自分が叶えたい欲望のために、神経症を「創って」いるのだ。

 

自我はさらなる再統合や発展をしたいときにも、神経症は出る。だから、いちいち、病気と騒がないで、なにをしたいかを明確にするべきだ。その点では、神経症者は、生きがいが無い人より、有利である。神経症者は、心的な「あるべきイメージ」や「取り組む課題」に気づいていないか、忘れている場合がある。

 

だから、ヒントになるのは、神経症のままでよいから日常生活を営み、課題に取り組むということになる。森田正馬もVフランクルも大体、同じことを、言っている。

 

夢中になって、無心になって、課題をやり、仮に症状があっても一喜一憂しないで、自分を認めれば、必ず「気にしなくなる」。「治る」ことにこだわるが、「気にしなくなる」から「気にしなくなった」が正解である。手や声が震えたが、笑われたが、一応、出来た。話は通じた。それで良いのだが、神経症者は、それが許せない。だから「治る」に拘り、ますます精神交互作用でドツボにハマる。

 

まずは、日常生活やスポーツやゲームに夢中になることではないか。ある、精神病や神経症患者が、戦争が始まって一時的に「治った」という話を聞いたが、それはつまり、対象リビドーが、自分に向かわないくらいに、世の中ですごいことが起こってという意味だ。

 

要は、治るというより、自分を気にしている暇がなければ、心因性の病など、あっさり寛解するということだ。

 

失恋からパニック発作になった人もいるが、それは対象愛を失ったからだ。フロイトが中絶性交と言って、家庭を持ち、妻が妊娠し、性関係が無くなったから、欲求不満から不安が高まる説があるが、100%間違っているわけではない。

 

神経症者は、なにはともあれ、世の中や他人より、自分に夢中になり過ぎている。その夢中を他に見つけるのが、一番良いだろう。