神経症に自我はどう対応するか
神経症は養育環境ばかりが、原因ではないが、日本人の「育て方」「母性過剰(過保護)」も関係ある。自分の場合、母親の強迫、ヒステリーや自我の弱さも一因、世代間連鎖もある。 強迫者は不安から逃げる(防衛機制葛藤の妥協)が、不安な人は、防衛機制が弱いため、不安神経症の人は、不安に直面しやすい。孤立するとパニック障害に。神経症的は、分析力や知識がある場合があるが、防衛機制の知性化により、葛藤を、避ける場合がある。その時は不安や葛藤に直面しなくなるが、無意識の愛情飢餓は再現はない。Twitterなどsnsでナルシスト、承認モンスターの「頭の良い人」もいる。本人たちは、知識人やエリートを自認して、親からの愛を外面で埋め尽くし、毎日、「知性化」を図ろうとする。このタイプのミソジニーや中年独身タイプはよくいる。「頭は良いが愛情関係がない」。運良く結婚、交際しても、近親者に、親への愛憎関係を再現してしまう。
母の不安をもらっている場合もあるが、基本的には、神経症体質は、親が逆に、厳格ではなく、だらしなくてもなる。
「親が周りがだらしない」と、超自我「しっかりしなくては」現代は、絵に描いたような厳格な父やキリスト教などはむしろ緩い。しかし、「外見」の教育で、「ありのまま」は無視される。幼児が何らかの気質で、弱く繊細だと跳ね返せない場合がある。
日本人は、緩すぎるのが問題で、逆に、世間や空気が、許せないが生まれる。
超自我が、常に許せないのクレーム状態になる。 無意識の無制限な自我は疲弊する。 超自我「警察24時」の状態になる 日本人は、外見や建前を保つために、「超自我」が発達しやすい風土もあるかもしれない 日本人が自我が西欧人比べると弱いというより、自我を軽視し、超自我ばかりに傾きやすいのかもしれない
そもそも、そんな弱い自分がいてもよい。理想自我は必要以上に神経症的な「強さ」に拘り、現実自我を無視する。
「強い自分」「理想の自分」などない。だらしない親や養育者のために、自我の健全化が幼児から図られない場合がある。厳しすぎる極端な親や、なにも教えられない甘やかして、心配や不安や偏りがある親。子供は、親と成長できずに、自我や超自我、無意識のサイクルバランスが狂う。すると無意識の要請が強すぎたり、自我が未発達(幼稚)なまま、外見上の「大人(超自我)」を取り繕うハメになる。成長できてない。自分の場合。神経症体質は、現実無視や養育者のために苦しみ、さらに、養育者のモデルがいないために、妄想の「厳しすぎる超自我」形成から、「自分いじめ(症状))がはじまる。やがて、神経症的ないじめや、権力者への同一化か「自立コンプレックス」に苛まれる。
ポイント 神経症者は、自我、超自我、無意識のバランスをはかり、「理想的自我の悪質クレーム」に、現実的自我は「やれることだけをやる」or「ありのままでよい」を徹底する。自我の弱い幼稚な神経症者は、すぐに心因性の病を出してしまう。養育者の不足のせいだが、今更、親のせいにしても始まらない。自我の再教育をする。無意識のクレーム対応を、すべて答えようとして、超自我vs無意識に、「板挟みの自我」を理解する。自我がない幼稚な神経症者は、それがわからない。「大人」は、悪質クレームに動揺しない。しても、きちんと「弱くてもよい」と認められる自我がある。神経症者は養育者の不足を無意識に自覚しているために、怒りや愛の欲求が強すぎ、劣等感が強く幼稚。自他共に厳しくなりすぎて、外見のステータスや外見の「大人」になる。神経症は「転移」が生まれやすい。必ず親と子の対立関係を再現し、人間関係トラブルになる。神経症者は、超自我vs無意識からの法外なクレーム状態を自覚する。きちんと、超自我/自我/無意識を認める。弱さ劣等感、家族の仮その愛や誤解を、現実無視の理想自我(クレーム状態)を、自我が対応しない。そうやって親の養育不足から、「依存性格」が生まれやすい。母や父に認められようと、顔色疑いがはじまる。自我が発達してない幼児ならともかく、大人になっても繰り返しでる。
完全、完璧は、簡単には身につかないのだ。養育者の不足は埋めるのは今更不可能だ。親も一緒だからだ。
そんな葛藤がある、不安があるのは当たり前。母から愛されたいが、母親も愛されてないのに、無意識に答えられるはずがない。父は、無関心なら尚更だ。親から愛されたいがために、現実無視の努力はやめる。自我は、無意識にうるせぇ、俺はやることやる、と意識する。その場合、現実的努力。
自我の発展には、タイミングがある。
自立や目標は地道に地味にやる仕事
コンプレックスをなるべく認める(それがあるのは人として当たり前)
どんなプロや賢人も、日々の積み重ねである イチローや大谷など、最初からスゴいわけではない(当たり前)
「勝負」にはタイミングはある
無意識やコンプレックスや欲が強いと、超自我が叶わないとき、罰が与えられる症状 (自分いじめ コンプレックスを認められない)
コンプレックスなどは、1日2日で解消などできない
現実は、きちんと積み重ねなタイミングや周りの人間関係がある
「偉大な業績」にも、日時やカレンダーを待たないといけないし、認めてくれる人の都合や社会がある
自我は安定を図ろうとする 抑圧が強すぎても良くないが、なさすぎても、だめ
防衛機制(抑圧、知性化など)が働かない人は、「不安」に直面しやすい 不安神経症の人
など、キリがない
コンプレックスや神経症が強く、慢性化している人は、待てないし、現実無視や、弱い自分と強すぎる自分のギャップ
〇ワンピースの喩え
(自我がルフィ(典型的なヒステリー神経症で動けない)板挟み不安定)
コンプレックス無意識が火犬のエース「許せねぇ」現実無視の)
あまりに、強い超自我と、無意識の要請から、「悲劇」、ヒステリーや神経症や身体化には、さまざまなレベルや種類がある
簡単に言えば、自我は、大人なる必要があるが、極端な超自我や無意識、コンプレックスが、自我を揺るがす
自分は、いま、無意識やコンプレックスに脅かされていると理解する
コンプレックスは誰でもある
解決は十分可能
地道な努力は必要
症状があっても、日々、「弱い自分を症状でいじめ(超自我はすぐ「しつけ」ようと)なくて良い」
弱くても良いから、日々良くなるような努力も必要
そもそも、「あり得ない自分」〇〇あるべき を捨てる
不可能や現実を知る
無意識やコンレックスは、自我をさらなる段階にひきあげたいが、現実を無視したような気持ちだけでは無理で、毎日、超自我が、それを、「懲罰(症状化)」
自我を意識する (アウェアネス)
火拳のエース無意識「このままじゃいけねぇ」
超自我赤犬「おまえのようなクズ(現実無視の)生きる価値なし!」
超自我と無意識の対立は、このように、自我や現実を無視して激しい 悲劇や対立や葛藤が事件になる場合もある。葛藤する場合、症状が妥協する。
エース「この時代が白髭ダァ」無意識の正論
ルフィ「あ 体も口も動けない(あまりに強い葛藤)」←典型的なヒステリー
自我が板挟みにならない場合は、超自我と無意識は、対立する。自我が無視されてしまう。幼稚な神経症。
〇現実的自我の例(必要な脳内対話)
エースさん、一旦引きましょう 今は ぶがわるいです 今、戦うタイミングではありません 落ち着いてください エースを羽交締いじめにする
自我はきちんと仲介する 赤犬から逃げたコンプレックスや劣等感 弱さやタイミングをきちんと見たあなたは強い 正義感は間違ってない だが、海賊でクズなのは、正論です でも我々は正義のヒーローじゃない 無意識を善悪で判断しない
現実的な自我は語る。
時代をつくるのは、日々の積み重ねや仲間たちの「歴史」なんだ、侮辱したやつは許せないが、自分にとって大事ならそれでよい、海賊だって、日々の努力や、弱くてもよい(海賊は「強くないといけない」と思い込む)人は誰だって弱い 俺も正義じゃない。
自我「赤犬(超自我)さん、すいませんでした現実的にマグマには勝てません 海軍に逆らうなど 」(でもいつか見返してやるでも、今は違う)神経症者は、毎日、あるタイミングで、退行してしまう「取り消せよ!」現実取り消せないことはあるし、変わることはできる 周りが非難しても、自分の価値は変わらない。世の中を無視して、自分の力を無視して、「世の中を変えよう」とする。現実は、「自分のことは少しずつしか変わらない」
赤犬「みちょれよ(今回は理解したみたいだから見逃してやるよ)」超自我は、ひとまず退散。
大人な自我「赤犬が否定した時代も、自分にとっては真実 動揺したり怒る必要はあったのか」
→そもそも赤犬の価値観に左右されるくらい弱い自分がいた 認められる「強さ」もある。
赤犬も、海賊(海賊は悪業)を取り締まるのは正論 警察が犯罪者が対立するのは当たり前 超自我に逆らうのはやめよう。無意識の要請は、そんなに必要ない。自我は無意識を仲介する。自我を強い意識し、自我は弱さを認める。
逆らわなくても「この時代が白髭」を示すのは、自分に大事な価値観のために、今は死ぬわけにはいかない(変われるの顕在化した自我)戦うべきタイミングや対立を避けるのも海賊(海賊や戦うことと言う定義が広がる)超自我と無意識の対立から、自我がきちんと安定を図ろうとする 現実を離さない 無意識の「クレーム」にすべて答える必要はない 悪質なクレーマーが自分の中にいる 野蛮な海賊が、いると「人格化」するのも心理的には良い 対話する 「超自我」警察やアンパイアが、犯罪やルール違反」を「取り締まる(症状)」無意識→現実を無視した理想的なクレーム と言う慢性化に気づく 自我はその度に、弱さを認める
自我「戦うことしか」わからない自分を変える。「しろひげ」が偉大なのは、自分が戦わなくてもわかる奴にはわかる。
弱いながらも、対立したり、仲介したり、誤魔化したりするのは、「人として当たり前」
exイチロー、高校時代は、監督やコーチの目を盗んでサボったりしたことがある 王貞治や大谷翔平もあり得ないフォームやスタイルを非難されたが、弛まぬ努力や協力により認められた(非難されない人はいない)
落合博満「人間関係上下関係ご合わないからすぐ野球やめた野球向いてないからボーリング」落合は、上下関係やしごきや体罰に疑問を抱き、最終的に自我の価値観を貫いた(周りに異論があっても、大丈夫)偉大な作家などは、病気借金や無職ながら、作品を世に出した 「完璧な状態」などない 萩原朔太郎、ニーチェ、ドストエフスキー石川啄木やベートーヴェンやカフカや宮沢賢治は、生きている間「幸せ」だったのか? 無意識やコンプレックス「幸せ理想的な健康や成功をしなくてはいけない」〇〇はいけない! を認める 認めるだけでよい 悪質なクレーマーを擬人化する 「どんなダメ人間でも結果は残せる」「価値観」などすぐに変わる 人の評価など理想や完璧は違う。神経症者は、「法外な要求」を理想や完璧と勘違いしてしまう。(親から愛されたことがないから)
実は、偉大な人だって誰だってそんなことはある)世界の偉人たちは、悪ガキエピソードは、たくさんある 自分も同じ 比べる必要ない
自我は、「定義の可能性」を発展し、さらなる統合がしたい(コンプレックスの要請)神経症者はは、ありえないことを裁ききれない
繰り返しはしたくないなら、神経症者は自我を無視した無意識のクレームが強いことを理解する 母や父との関係もある 葛藤が起きやすく自我が脆い 必要もないのに「理想的自我」を叶えたがる 必要な理想を現実的に対応する それ以外は、悪質クレーム、抑圧(無視)してよい。自我に自信がないと、クレームに弱い。「必要のないクレームはお断りします」でよい。
でも、もしあなたが無意識に答えるには「自我の強さ」がそれなりに必要 クレーム状態ではなく、必要な要請を進歩を一つ決める 無意識の段階を自我はさらなる統合がしたいが、現実は一個づつやる(現実的自我)漠然と「このままじゃいけない」に答えようとしない 「具体性がない悪質クレーム」を自分で作って、超自我の懲罰している 自我は、きちんと安定を図ろう。
現実的自我に従い、無意識からの法外な「理想自我の追求」は、すべて答えなくてよい 悪質クレーマーを擬人化する 自己対話を積み重ねて、必要なクレーム処理だけを自我はする できなくても大丈夫と、警察(超自我)が来る前に、対処 (現実的にことあるごとに警察が来る必要はない)まともな愛情関係なら、この「そのままでよい」が、満たされているが、神経症者は養育者の不足から、自我の安定が希薄。
母、父などの養育不安定から、超自我や無意識の葛藤、エディプスコンプレックスなどを認める。愛されたいがための、外面の努力は必要ない。必要か、必要ないのか、自我は、自分で判断しよう。「おまえはそんなままじゃいけない」と言う呪いは卒業して、現実自我を意識する。「やるべきことをやろう」「やれなくてもok」に変わる。変われる。神経症者は、ひたすら症状にこだわって、「このままじゃいけない」が「このままでいたい」を繰り返して、耐えられず症状化する。現実的自我は、無意識のこのままじゃいけない擬人化を退ける。やれることをやり、やれないことやすべて答えられないのが、自我。理想自我は、なんでも質問に答えたがり、分からないのに答えたがり、断れない。自我は、「拒絶能力」「やるべきこと」「必要ないことは無視」してよい。それが現実的な自我。自信を失った自我は、慢性化したアレルギーや皮膚病や神経症で、「自分いじめ」で、葛藤を避けて、罪責感や罪悪感を誤魔化そうとする。変われなくても最終的には大丈夫かなと言う人は、穏やかで、神経質ではない。自他に厳しすぎる人から、自他の弱さを認められる現実自我になる。愛されてないとか、親子関係のトラウマや葛藤を認められないために、そうなってしまったなら、そんな自分の「現実」の自我も許してあげる。仕方ないのだと。人間の成長は、無意識の要求に現実的に自我が対応することであり、無意識の過剰要求や「周りに認めらる」ためではない。それができて、目の前ことに集中しているとき、少しずつ成長し、やがて大人になる。神経症者は、「一山」当てたくなる。幼稚な要求は無視する。神経症を治したいなら、人間的な未熟さや愛のなさを認める。無意識からの過剰要求vs超自我という「幼稚さ」から対象化し脱出する。立派な人は、自他共に厳しいのは嘘。立派な人は、自他共に優しい人。穏やかな人を見て誰が神経症というだろうか。