心の書庫

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神経症の人は、心にヒトラーを飼っている

神経症者は、やたらと自己卑下をしている。自己否定としての外面的な価値を、自らが満たしていないにもかかわらずに、ナチスヒトラーみたいに、「健康美男美女」しか許されない、という優勢思想的かつ画一化された、超自我としての規範を内在化している。

 

自己否定しながら、周りの人達も含めて否定をしている。だから、そんな「自分は生きる価値はない」と、存在価値を否定し、それにそぐわない時に、抑うつやパニック症状など退行的反応を見せる。そもそもそういう性格者は、「ある特定の人種=自分を許さないというナルシスト的な差別主義者」が、燻っており、大人しい限りにおいては、病気や道徳を振り翳している。

依存的かつ隠された全体主義的価値、たとえば、「正社員以外生きる価値はない」という人は、自分はメンヘラフリーターで、うつ病ながら働いて「頑張っている」などと訳の分からない自己愛を露呈して、他方では、侮蔑すべき自分や他人を規定してしまっている。「病気ながら頑張っている自分」を規定して、支持を集めたがる。都合の良いときに、不安発作やパニック症状がでるが、結局、無意識の心的欲求が現実離れして高く、ナルシスズムが満たされないと、なにか重要な広場や会社に行こうとすると、退却するのは、まだ未熟な証である。大人なら、自分より、他者を優先的に考える思考や思いやりを持つはずだが、親から愛されなかった神経症的自己愛性格者が、他人より、自分の症状が大事なのだ。現実的に人から認められるという道筋を仕事やなんらかの課外活動を、通してやるのは、1日2日のことではない。だから即効性のあるコンテンツや、神経症者特有の「病気自慢」による、疾病利得のために、ひたすら病気を話す。つまり、そんな自分を認めて欲しいが、他方やはり密かに全体主義者な自分の要求があり、そういう葛藤から慢性化する。「現実的に生きる」という当たり前のことを、普通の人達はやっているが、神経症者は「妄想」や「無駄な思考」が大好きなのは、「頭の中で超自我と無意識の葛藤」が凄まじいからである。病院に行って薬を飲んでも、いつまでも治らないのは、神経症者が「意地でも治りたくない」「意地でもあるべき自分でいたい」などと、他方、現実的な努力はしないが、「薬で楽になりたい」「自分自身ではなく医者が自分を治すべき」と思っているからだ。日本中の心療内科や精神科のレビューが荒らされているのは、そのような神経症性格者の「ナルシシズム」に触れたからである。フロイトも、そういう人は、治らない、と割り切って、診たくない患者としている。ナルシストは、自分の否は認めないし、認めたフリはしても、やはり心底許せないのだ。あとは、適当な理由をつけて、相手を否定すれば、優越感に浸れる。神経症がやりたいのは、とにかく「母との一体感」パーフェクトな世界だ。しかし、世の中には、そんな世界はない。普通の家庭なら、きちんと愛される(そのように感じられる)時期はあるが、神経症者にはない。その点では被害者ではあるが、やがて、無意識の加害者になる。いまさら親や人生を、呪っても仕方がないと、建設的に「神経症は必ず治るからきちんと向き合って治そう」とは、夢にも思わない。彼ら彼女にとって一番大事なのは、「神経症が治らないこと」なのだ。

 

そんな神経症者は、かなわないと分かるとうつになったりする。うつとは言っても、典型的なうつ病ではなく、神経症反応としての、退行うつだ。だから、好きな外出やだらだら日常を生活したり、自己アピールはやれる。「正社員以外生きる価値なし=世界=母に愛されない」という自分に都合の悪い現実になると、抑うつを露呈して、仕事にいかなくなったり、人と合わなくなる。まずは、神経症者は、自分が性格が悪質なのか、気づいていない場合がある。神経症は、謙虚に大人しくしている場合があるが、他方「あんなやつらなんかより」という劣等コンプレックスから、優越感に浸りたがる。典型的な神経症反応としての自尊心だ。その場合、「自分だけは優れているのにあいつらは狡い」みたいな、禁欲的な不自由な自分の人生を上にする。ヒトラーは目立つ前は、なんら凡庸な人に過ぎなかった。冴えない人が、ある日突然、覚醒して、「人は世はこうあるべき」という再現がない無意識の力に飲み込まれ、破壊的な超自我としての、懲罰を自他に向け始める。神経症を治したいなら、まずは、「こうあるべき」という心の中の闇を擬人化すべきだ。いかに、自分が、薄汚れた神経症者なら、自分がなぜ、苦しんでいるのか、そこで理解するだろう。いますぐに、全体主義的な自尊心を持つのをやめて、周りも許せる人になることだ。「どんな人間も存在レベルでは生きていて良い」という人は、リラックスしている。本来なら、生育環境や母などなら、その「無条件の愛」を体感できるはずだが、神経症には不幸にしてそういう経験がない。だから、安易に全体主義者になりさがり、国や周りの価値観で、自他を裁くようになり、ナルシストに育ち、ナルシスト願望がかなわないと、コンプレックスが刺激されて、すぐ傷つく。「メンタルが弱い」というのは、コンプレックスばかりで、すぐにぐらついてしまう塔のようだ。簡単に崩れ去るような「外面的な価値」=全体主義を導き、安易に世界=母から認められると導き出すようになる。しかし、そんな人間が成長するはずがなく、自他を破壊する魔人となるだけだ。なら神経症者はどうしたらよいか。解決策は多岐にわたる。少なくとも神経症者の性格をきちんと理解すべきだ。いかに、自分が、偏った人かを気づいた時点でもう、治る前にいる。本気で治したいなら、まず病院に行って器質性の問題がないか確認して、自分はいたって健康なのだから、あとは、病気について考えないことだ。逃げ癖の性格形成は、愛される経験がないから、今は仕方ないが、「少しづつ」良い人になるように、自分の性格の悪質さを許してゆく。そうすると無駄な筋肉の凝りや頭痛や不定愁訴心身症は減ってゆく。「パーフェクトな自分」ではなく、べつにパーフェクトじゃなくても、やるべきことに向き合え、それをやるのが分かっているのが大人である。しかし、神経症者は、「他より抜きん出た私」になりたがる。「普通」というのが、死ぬほど嫌である。しかし、普通のことを普通にやらないで、普通はくだらないと勘違い妄想をする。ひとえに母や家族や知人友人から「手っ取り早く認められるため」である。治したいならそういう幼稚さに今すぐに気づくべきだ。