心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

神経症の俺がなにより示していること

突然だけど、俺は「宗教」に向いてないと思う。一時期、仏教には救われていたが、仏教つても、結局は、今風に言えば、唯物的、消費社会的な価値観に入れないか、社会に居場所がない、陰キャラの優越感や慰安所でしかない。中には賢人はいるが、凡夫は、たんに利己的な「苦」を西洋外科手術的に排除したいだけだ。俺を多少知っている人ならわかるだろうが、俺も人生が悲惨すぎて、仏教やキリスト教を齧ったことがあるが、違和感や疑問が浮かんだ。それは、そもそも宗教は、他人への優越という「社会的文化要因」の、無意識的な発露ではないか、ということだ。釈迦やイエスが人並みのとき、周りの人に、なんらかの鬱憤や不満足を、感じたのは否定できないのでないだろうか。その「道徳の起源」について、厳しく非難したのがニーチェであり、フロイトも同様だった。俺は、負け組人生を払拭したいために、仏教やらキリスト教やらと騒いだが、結局、アドラー的な、権力や性的欲求不満が、道徳の発露でないか、ということだ。俺みたいなカスが宗教で勝ち誇りたいのは自明であり、世の中がカルトなどの汚染が酷いのも、この一重に、「権力欲」ということで、宗教というのは、フロイトに言わせれば、集団神経症ということになる。皮肉にも、俺の生育暴露を見ていただいた人には、分かるだろが、俺も「神経症」である。

 


ニーチェフロイトも、「宗教」は、弱者の慰め(ルサンチマン)的なものにしか見てなかった。フロイトは、ニーチェを信奉していた。それは、宗教に対する視点だ。フランクルユングなどは、実存やスピリチュアルの観点から「神」に肯定的な部分はある。

 


坂口安吾は、救われないことが救いという次元に立ったが、この、人の根本的な、「素っ裸」の次元、「文学のふるさと」という「突き放された」ところに、俺は呼応した。坂口安吾は「救われたい」卑しさや、処世上の詐術を捨てよ、と言いたかったのだ。それこそ、「貴族の馨り」に相応しいと俺は呼応したのだ。

 


仏教などは、とくに真理を説きながらも、同時にそんなものはない、というから、キリスト教とは違うが、「起源」は、社会的な要請、すなわち外圧や生物的な権力欲が関係はするのではないか、という。天皇制の「起源」すら、同じではないのか。猿が他の種より、なんらかの特別でありたいというのは、人も猿も本態的には変わらない。宗教の「起源」は、そういう生理的な動機に他ならないと。カースト制なんか、学校や会社の、人を見下して区別するありふれたもんで、釈迦なんかは間違っていると言うが、実際に上下はなくても、「社会的通念」としては、ある種の属性を見下す風潮はある。そこにあるのは、流布した価値観を仏教により「無効化」しようということはある。たとえば、クラスのガリ勉がヤンキーに見下されていたとして、「あのような下等なヤンキーより俺が上」なんせ、教養や宗教を理解しているから、「ヒエラルキーなんか真理からしたらあってないようはもの」としながら、世は資本主義的価値観で、交際をしている。だれがニートやメンヘラや浮浪者を守れ、階級なんか関係ないと言うが、いったいどこのアイドルが、喜んで「社会的弱者」と、「あの人は野蛮人より仏教的に優れた浮浪者のおっさん」と交際するのか。つまり、猿的なヒエラルキーや階級を、「ない」とする発露からさらにルサンチマン化するのが、宗教のポテンシャルではないか、ということだ。俺は、ニートをやりながら昼間色々な場所を見てきたが、どこにも置き去りにされた「社会不適合社会」を見てきた。これは、残念ながら事実である。

 


ニーチェが言いたいのは、支配者道徳と奴隷道徳と併記し、歴史の流れの中では奴隷道徳(大衆、ルサンチマン)が勝利することだ。今の社会では、それは価値観より資本主義的な「勝ち組」の方に傾いているが、支配道徳は、必ずしも悪い意味ではなく、力動的な強弱を示しているにすぎない。

 


利己的で力強い、他に拠らないような無頼的な人間の賛美ではない。利他的で弱々しい人間を賛美するようになった。まあ、あるいは「カルト」であり、サブカルチャーに耽溺する「大衆」だ。「あの人たちなんかより、わたしたちは、人間的に優れている心が弱いもの」というのが、奴隷的な起源や要請にあるのは、否めない。

 


この奴隷的な価値観こそ、私のような負け組人生には、心地よい。ほとんどの仏教やキリストを騒いでいる人は、ナード、オタや真面目系の優越感である。そんな単純なわけはないが、俺の場合は、そんな気がする。なぜなら、俺が「神経症」で、それを、証明しているからだ。奴隷道徳は、今でいうと資本主義とかカルトとか、サブカルチャーなどだろうな。まあ、日本人では、太宰治みたいな、弱いが勝ちってやつよ。

 


引用→惨めなる者のみが善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ至福はある。~これに反して汝らは、汝ら高貴にして強大なる者よ、汝らは永劫に悪しき者、残忍なる者、淫逸なる者、飽くことを知らざる者、神を無みする者である。汝らはまた永遠に救われざる者、呪われたる者、罰せられたる者であろう』「道徳の系譜」引用おわり

 


こういう、「頭の中の価値転倒」というのはよくある。まあトランプの「革命」だわな。根拠はないが、周りを見て優越している。さしあたり、いまはネット社会(ルサンチマン)だろうな。とにかく、神経症なら、「宗教」ではなく、他に優越する「起源」ではなく、ニーチェは、貴族的評価様式を賛美したんだよな。まあ、俺たちみたいな「負け組」には、ルサンチマンがお似合いだ。あるいは、絶望感に直面して潔く死すほうが、いささか貴族的ではなかろうか。ま、坂口安吾はやはり良いな、と再確認しただけだ。しかし、疑問点は、「資本主義」や「自由主義」でさえ、ルサンチマン的起源なのではないか、という点だ。逆に「市場原理」は、ルサンチマン的には、良くも悪くも、どのように作用するのかで、評は異なる。俺みたいな神経症クソニートは、「市場原理」について、どんな風に考えたらよいか、いまは思案中だ。市場価値はルサンチマンを打ち砕くどころか、助長しているように見えるが、どうだろうか。まあ、ここらでやめておこう。人は、政治にせよ、文学にせよ、仏教にせよ「救い」を求めているが、たんに死ぬだけだ。ジタバタしても仕方ない。