心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

カントに於ける危機への対処

未来に、最悪なことが起こるに違いないというオブセッションやハルマゲドンの願望や世界戦争のビジョンを前提から不可避と抱くのは、じつは西洋で19cに起きた神学智に発するスピリチュアルだと柄谷は指摘している。これは、もっと先んじて、準備だけにあきたらず、そのためには先制攻撃するしかない、という妄想になる。

実際にオウムは、地下鉄サリン事件を起こした。



コロナにおいても、実しやかな言説が、「跋扈」しているが、意外なことに、哲学的な、形而上学的な問題があると、再吟味したのがカントだと柄谷は言う。


それまで、ヨーロッパでは、聖人が集う祝祭に、地震がおこり、ライプニッツ的な予定説をヴォルテールは嘲笑い、ルソーは文明社会に耽溺する人への裁きとしたが、カントは違っていた。


カントは、あくまで、建築、耐久の必要性を説いたのだ。

無宗教者さえ、災厄には「意味」を付加させがちだが、リアリティとは、カントのような振る舞いのことだ。


我々は、カントの問題、つまり哲学や形而上学を自然災害によって、反故にするのではなく、再吟味を測る必要があるわけだ。


最近、私は、テーラワーダ系の説法を聞くが、徹底しているのは、いちいち生や死に意味なんかない、ということだ。


我々は、意外なほど、科学主義の時代にいながら、迷信深いところがあるが、仏教は、本質的には、その過剰な意味性やエゴイスティックな理解をしないことを必要とするようだ。


いちいち、意味や、超越的な立場をとりながら、それこそルソーや日本の一部の人のように、「神のみぞしる」だとか、「天罰」「試練」など、いかがわしいオカルティズムを発信したりなどしない。それは、自己を、超越的な立場にしているが、あくまで感染症対策など、物理的な対処に他ならぬことだ。国民から、圧倒的に優位な「神の側」「摂理の側」に立ち、発言することなど、非科学的というより、もはやオカルティズムだ。つまり、カントの言うように、ここには、哲学的な形而上学の問題意識が避けられないということになる。


未来への「予知」や「神」だとか「意味」を持ちだす連中が、少しはカントの振る舞いを見習って欲しいものだ。


カントのような、まっとうな振る舞いが出来ているか?