心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

終われない推理に於ける探偵


私は探偵が好きで、小さい時からそうだ。

いまは、あまり探偵小説も読まなくなってしまった。
若干、憧れも遠のいてしまっている。
だが、文学研究の一環として、探偵は一つのテーマになっている。
ちなみに探偵小説、推理小説にも、大別すれば二種類あると考えている。
それは、純文学寄りの推理小説と、単純に娯楽としての探偵小説だ。

今回の話は、純文学寄りの推理小説についてだ。

推理小説には、多かれ少なかれ、実は、作者の哲学的、あるいは批評的な問題が潜んでいると言える。
たんなるパズルや娯楽以上の問題意識に、「歴史」性が潜んでいる。

柄谷行人は、彼岸過迄の批評で次のように言っている。

ホームズの推理は、決まってヴィクトリア朝のイギリスにおいて上品にすましかえった紳士たちの過去の犯罪(おもに海外植民地での)をあばきだすことに終わる。

それは、ある種の父殺しであり、フロイトマルクスの数奇な同時代性を指摘している。要は偶然ではない、ということだ。

シャーロックホームズの推理は、犯人のいる遡行的推理の向きがある。
ある種の正統派。これは、レイモンドチャンドラーなどの、ある種の古典派につきものだ。チャンドラーの暗黙のアメリカの風俗や構造的批判は無視できない現実としてある。

一方で、脱構築としての真犯人の不在だとか、認知トリック(叙述トリック)や超自然現象の導入(虚構推理やひぐらしのなく頃にのようなアニメや漫画からのアンサーがある。

化物語もここに加えても良いかもしれない。ある種の「怪異」だとか、メフィスト系の作家たち。

名探偵コナンは、アニメにしては、良くも悪くも、愚直に正統派を貫いているかもしれない。

さらに、日本の「本格派」と呼ばれるような作家もいるが、大事なのは、ミステリーにおいて、共通前提や現実が崩れているということか。

皆が同じ現実や歴史を生きていないという上で成り立つ推理は、根本的に人の心は? 悪は? という問題意識に行き着く。(心理学の導入)

我々は、危うい「現実」の不確かさの中でも、真犯人がいるか定かではない上で「推理」を強いられる。

必然的に「怪異(化物語)」や「オヤシロさま(ひぐらし)」といった謎に直面してゆかざるえないのが、現代の探偵の宿命のようだ。

ある種の歴史的な遡行と水戸黄門的な安心感を、現代のミステリーからは、あまり感じないといえる。探偵や推理が飽和しているともいえないか。

これがいわゆる「歴史的」な古典と、それ以後の断絶を示している気がしてならない。

たとえば、想像して欲しいが、資本家やグローバリストや政権の悪事を暴き出し、真犯人を突き止めるのは、なんだか滑稽だし、ほんとうにそいつらが犯人だろうか、という懐疑が必要になる。

柄谷の指摘は、現実のミステリーには、どのように照応するだろうか。

日本人の歴史には江戸川乱歩という作家がいる。

彼は推理探偵小説といえるが同時にそうではないといえる。私が、とても、よく分かるのは、江戸川乱歩という人は、推理や探偵を疑った作家であり、推理作家でありながら、そもそも推理作家とは? というある種のメタ理論家であったという点だ。

しかし、この当たり前といえる現実
歴史への懐疑(真犯人は誰か)は、推測だが、歴史的な遡行を安易にはねのこける知性の問題であり、現代的な悩み、問題意識といえる。

たとえば、一般的な左翼の歴史的な遡行には探偵的な疑いがある。

それは天皇ファシズムだとか軍部だとか、資本主義など、色々な探偵としての、本質的な懐疑があるが、そういうことに素直に居直ることも出来ず、本当に「真犯人」は誰か、という問いが、推理作家には、課せられているのが、現代作家の直面した知的問題だといえる。

しかも、出自やナショナリズムも根こそぎ奪われて、とつぜんコンクリートジャングルに産み落とされた非歴史な存在には、なにか依拠すべき場所はあるのか。

これは、謎や密室が、もう人の心しかないかのような心理学方面の心理主義を生み出したし、超現実を導入させたのではないか。

この現実の中で、最も、私を捉えたのが、かつての城平京のスパイラルだった。(動かしようのない遺伝子や運命への挑戦)
日本の本格派ミステリーより、私は漫画のミステリーにハマり、今もひぐらしのなく頃にを好いている。

ガラスの街というポールオースターという作家や、アランロブグリエ、安部公房のような、事件や犯人そのものも疑わしい、というモチーフはやや哲学、純文学寄りであり芸術方面だと思う。

萩原朔太郎の詩にも探偵が現れ、夏目漱石にも彼岸過迄に出てくるが、この探偵というモチーフは、文学においては、歴史的な必然的な存在という指摘は大事な指摘と思われる。

坂口安吾は、探偵小説に興味を抱くが、これは坂口安吾のたんなるきまぐれだろうか? 

いや、もっと本質的な知的な取り組みと言えるものがある。 

これも柄谷が示しているが、坂口安吾にとって、歴史家は探偵であり、柄谷が言いたいのは、そういうことだ。

柄谷は、歴史的犯罪とか、歴史的な原罪として、探偵の手法を、フロイト、探偵、歴史というイコールで結ぼうとしている。(それが合ってるかはともあれ)



歴史的な悲劇はすでに起こり、謎はあり、解決はできず、しかし、以前、謎は残ると言うある種の不条理に投げ出される。

敵はすでに去り、事件現場だけはあり、真犯人は愚か、宙吊りの悲劇、なげだされた殺人現場が現れている。これをありありと示したのが、カフカ的ともいう不条理だし、萩原朔太郎の次のような詩もある。

《干からびた犯罪》
 どこから犯人は逃亡した?
ああ。いく年もいく年もまえから、
ここに倒れた椅子がある、
ここに兇器がある、
ここに屍体がある、
ここに血がある、
さうして青ざめた五月の高窓にも、
おもひにしづんだ探偵のくらい顔と、
さびしい女の髪の毛とがふるへて居る。萩原朔太郎 


京極夏彦ひぐらしのなく頃になんかも、認知のトリック、叙述トリック
ひぐらしなんかは大胆にノックスの十戒を打ち破った(べつに破っても良いんだけどw)爽快な傑作であるが、現実が抽象度を増すごとに、そもそも「現実とはなにか」が、揺らぎ、後期クイーン的問題を持ち出すまでもなく、犯人はいったいだれかという根本的懐疑が必要になる。つまり、父殺しが成立しない。

そういう根本的な問題、絶対的な悪とは、罪とは、と言う問いから、すべては揺らいで曖昧になってしまうのが、現代人の向き合うべき「敵」とは、なんなのか。

まして、資本主義だとか、新自由主義の「打倒」とは、汚職は、人の敵なのか。私が素直に左翼的な文脈に居直れないのは、現代人の歴史的な階級闘争さえウソらしく感じる。

三島由紀夫小林秀雄の対談には、ラスコーリニコフ金閣寺で、その「動機のなさ」を、言っている。

小林 三島君のは動機小説だからね、だから、あれはむつかしかったでしょう。ラスコリニコフには、殆ど、動機らしい動機は書かれていない。やっちゃってからの小説だからね。君のは、やるまでの小説だ。
三島 本来は動機なんかないんでしょうね、ああいうことをやるやつ。
小林 ないでしょうね。・・・・・・
で、まあ、ぼくが読んで感じたことは、あれは小説っていうよりむしろ抒情詩だな。つまり、小説にしようと思うと、焼いてからのことを書かなきゃ、小説にならない。(『小林秀雄対談集』)

金閣寺にも色々な読み方があるだろうが一応、ミステリーの視点で読むと、三島由紀夫は、金閣寺は故なき、動機とかわかりやすさではない 戦後自体がそもそも「フェイク」、「虚構推理」ではないか。

いまは、だいぶ下火になったが、一世を風靡した猟奇的な少年、少女たちの、故なき、誰でも良かったかのような、故なき、透明な犯罪は、まさに現代人の悪や罪の、異常なまでの無差別的な軽さと、「透明性」を表していないか? 

情念や愛憎故の分かりやすい犯罪は世界中にあるだろうが、結局、この、なんですらない、なんにもならない、たとえば、サカキバラ事件なんかも、いま、考えるほどに、表向きは猟奇的かつ病的かつ、ひたすら謎めいているのに、その実、まったくナンセンスで中身と深みのなさ に唖然としないだろうか。

しかし、冷静になって考えてみると、首切り、斬首とは、「歴史的な」ものであり、三島由紀夫の生首と、サカキバラ事件には、隔たりがある気もする。いや、同じかもしれない。

私は、むしろ、猟奇性というより、なんだか稚拙なサイコパスと、晒し首、生首という「時代錯誤」なシュミレーションに見えた。三島由紀夫もサカキバラも、錯誤的だから、我々は驚いた。もし江戸時代だったら? それは「普通」ではなかったか。

あるいは、要は、なにか独創的な嗜癖や美学というより、無邪気な砂遊びの「模倣」と言ったらどうか。

それが現代人には、「異常」に見えたとしたら? 

晒し首は、日本人には、実は馴染みある。
仮に、それが、学校のいじめが原因でも、敵を「討った」のなら、ほんらいの歴史的な正しさは、我々、民衆の側より、そのような殺人者の側にあるとさえいえる。

三島由紀夫と少年Aは、なにか同じ「匂い」がする。ある種の「君のラスコーリニコフ」的なものが。

今更、分析するのも、くだらないが、あの時代も、今の時代も、一人歩きした少年Aにしても、あれはジャーナリズムでしかなかった可能性はないか?

たとえば、私は、日頃、YouTubeで、猟奇性や暴力的なゲーム内にも、そのような「箱庭」の狂気を普通に見ているが、その親近性は、実は否定できない。

私は、ゲーム脳とか、ゲームがいけないとか言いたいのではない。

私自身も、我々には、「少年A」との内的なリアルにおいては、実は、たいした隔たりはない可能性さえあるのだ。


我々には、それをクレイジーとか、ニーチェが言うような「深淵」や少年の「心の闇」より、むしろ、そのあまりのニヒリスティックの極地に驚きを感じる。

不気味とは、たんなる闇とか影ではなく、もはや裏表さえないということではないか。こののっぺらぼう。スーパーフラット

そこには、謎ばかりはあるが、じつは見せかけの謎めかし、仄めかし、ゴミ山のゴシップやジャーナリズム(それらはただのゴミ)だけが邪魔をしていて、そのヴェールの先には、実に現代人の「事件」と、数々の事件現場には、たんに不条理的な、宙吊りがなされているかが分かる。

そのときの探偵の立ち位置は、どうなるのか?

なぜ、どうして、という素朴な動機さえを跳躍する、その犯罪者の行為は、我々の常識や意味を嘲笑うかのようなある種の透明さと不可解さ、と言う空白を残すだけで、本来は、現代人のある種の「透明感覚」は、透明なぼくとやらは、じつは心理分析も、深層までを跳ね除けるもの(あるいは跳ね除けたい)であった感覚的に思う。

ある種の殺人者は、心理学を持ち出さなくとも、ある種のトリックスター的な側面を持っていないか。

我々がテレビやネットのジャーナリズムから、そこに「異常性」や「意味」などの心理分析や稚拙な心理学や、人間理解の浅さを、我々の罵倒讒謗を「暴いて」しまったのではないか?

村上龍限りなく透明に近いブルーからしても、じつは、その「透明」とは、現代日本人の避けようのない青春臭いものを、私はかぎとってしまう。

人の根底の「透明」をあるかどうか、不可知論的に擁護できるかは、不明だが、我々、一般的な人種は、ある意味で、「あまりに物分かりが良すぎる」のではないか。 

トリックスターとしての少年Aが、嘲笑うのは、むしろ、そのような大学教授のような「深層理解」ではないのか。三島由紀夫の素朴な呟きがある。それは以下だ。

(人々はなぜ深みを、深淵を求めるのだろうか?思考はなぜ測量錘のように垂直下降だけを事とするのだろうか?思考がその向きを変えて、表面へ、表面へと、垂直に登ってゆくことがどうして叶わぬのだろうか?)-太陽と鉄- 三島由紀夫

私は、サカキバラ事件からは、たんなるフラットさを見る。コンプレクスとか闇とかありふれたものではない。

現代人のある種の異常とやらは、ドストエフスキーの悪霊や罪と罰などでも説明は不可能ではないと言える。つまり、故なき、ある種のニヒリズムだ。

現代人は、ある種の超越性や反社会的な一体化が、得られにくい、ということも関係あるかもしれない。

この「難問」を前にして、「探偵」は、どのような変遷を遂げてゆくのか、未来社会で生まれてゆくかを見届けてゆきたい。