心の書庫

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柄谷行人 村上春樹に会いに行く

具体的には、柄谷は、たんに超越的、イロニーだから、気に食わないということなのだ。


柄谷は、国木田独歩の、忘れ得ぬ人々に、無意味な風景を大事に思うだけで、人が実は描かれない酷薄さ(イロニー)という矛盾をみる。


これを柄谷は内的人間と呼ぶ。しかも、柄谷は、それを邪悪な意志、とか転倒と書いているが、それはやや穿ち過ぎの印象を与える。


この憎悪は村上春樹にも同列の批判が向けられている。他、川端康成などもやや含む。


柄谷が、邪悪というのは、イロニーだから、だと付記されている。柄谷はイロニーのよりヒューモアを夏目漱石の道草の結末について肯定的に見る立場のようだ。


とは言え、また、個人的には、村上春樹が、日本文学を、学んだからとか近代を越えるために、そうしているわけでなく、作品は、たんなるハルキの趣味判断でしかない、ということを、感じる。


柄谷は、日本近代文学の自明性に異和を覚えていた夏目漱石と違い、国木田独歩村上春樹は、その自明的な「風景」を見る。


カントに倣い、柄谷は、「私」などなかったかのように、言葉が認知に散見するだけ、とする。とは言え、消費社会を描いて、生きているのだから、当たり前といえば当たり前だ。これは、村上春樹の資質というより、消費社会の現れだ。


日本人の、ある種のスノッブさや粋が、形式だけの無意味な戯れにあるというが、村上春樹においては、それが、ノルウェイの森における直子について、語りたいが、語れないための隠蔽に使われているかのように、読み解いているが、それは、まさに正解だと思う。



しかし、村上春樹の趣味判断は、あえて擁護するなら、べつに無意味な戯れではないと思っている。(実際に、春樹はサブカル好きだ)


つまり、作中、三島由紀夫の事件や全共闘を見て見ぬ振りをしながら、趣味(いまでいうオタク化)の世界に生きているが、村上春樹と、現代オタクは、まるで次元が違うと思う。現代オタクは、社会的な描写さえない。だから、ハルキとオタクをまったく同じとは言えないが、近親性はあるのは確かだ。


現代オタクは、最初から外界や知性も他者もないまま自閉しているし、高度なイロニーとは無縁だと考える。


村上春樹は、明らかに全共闘時代や政治への幻滅から、イロニーやディタッチメントを意識している。


ノルウェイの森のようなロマンスのほうに価値があると、きちんとカウンターしていると思う。とは言え、ロマンスは、彼の手段ではないと考えたい。


かりに超越的な立場や優位や風景について語っていても、動物的なポストモダンなオタク的気風とはまるで違う。


春樹は、消費文化において、それこそ社会的な事件より、ビーチボーイズアメリカの小説やサブカルチャーを「ほんとうに」好きなわけで、柄谷には、それが、「風景」や「無意味なことにあえて戯れる」ようなスノッブさを垣間見ているが、いくらなんでも言いがかりではないか。


柄谷にとって、「どうでもいい」「無意味な」と切り捨てるようなものではないようなアメリカやサブカルチャーがあるのは事実だし、日本のアニメーションや漫画も一概に、動物的な欲求を満たすためだけの消費でしかないとか、政治からの逃走とかは、浅はかな言いがかりでしかないと、感じる。実際に、柄谷がアメリカやイギリスのサブカルチャーで鼻歌を歌うのは想像し難い。彼にはその感性がないから、柄谷にとっては、ハルキは「無意味な風景」なのだろう。


国木田独歩村上春樹を、潜在意識における「悪意」と読み取る柄谷にこそ、私は個人的に悪意を感じる。


要は柄谷は、ロマンティックイロニーの保田や国木田独歩を、村上に見出し、や端康成などを、否定し、暗に中上健次を上げている。


とは言え、村上春樹は、日本文学がどうとか、日本社会云々よりも、やはり趣味的な人をでないと感じるのも事実。


後年はコミットメントを主張していたが、違和感がハンパない。なんかイスラエルのなんかの賞のとき、汗かくまくりで身振り手振り、社会的な意見を、卵が壁が〜とか言っていたが、あまりに不器用に映ってしまった。無理するなよ、ハルキよ、とね。



とは言え、柄谷によれば、国木田独歩に端を発する、近代文学そのもののイロニーの春樹は、近代を乗り越えているわけではないし、笑止なのかもしれない。


ちなみに、大江も村上も、一人称が僕になっているが、大江の僕はアレゴリであり、村上春樹のそれは、「無意味なかとに根拠なく熱中して見せることによって」優位性を確保する超越的自己だという。


なるほど、たしかに村上みたいな日本人はおろか、もはや世界には、かなり一般的な態度として、あるように見える。


柄谷は、村上春樹の態度を、闘争から退避した、内面や風景を、一見否定したかのようにみえた詐欺であり、むしろ内面や風景の勝利としているところがよくないとしている。


たしかに、震災やパンデミックなどは、無視できないからな。



ちなみに、これは、安部公房にも似たような傾向を見受ける。とは言え、安部公房は、ロマンティックの優位性は説いているようではないだけ、春樹よりかはマシかもしれない。



とは言え、村上春樹への柄谷の批評は、なんだか感情的で、同じことの繰り返しに聞こえる。


挙げ句の果てに、村上春樹の作品=作者の主張と勝手に決めつけている。



柄谷は、最後、皮肉なことに、春樹の作品が、直子に直面したノルウェイの森のときに、ついに、イロニーがなくなり、ロマンスだけになったというが、ある意味これが春樹の本質だといえないか。


つまり、失恋にまつわる、愛と死を中心にした、それ以外は、イロニーが飾りとして形式的な機能を、無意味に反復しているのがハルキ作品である、と。柄谷も、反復するしかない。



たしかに、柄谷がいうように、こんな村上春樹に神秘などあるわけがないし深読みなどギャグだろう。


とは言え、柄谷はなぜ、そんなことで、ハルキの「優位」を糾弾するのか


柄谷にとって、中上健次の「優位」は不問なのか。


とにかく、ハルキが歴史や現実逃避するな、といいたいのだろうが、歴史(現実)より大事な直子(ロマンス)があると言うなら、俺は、やはりハルキを、「個人的趣味」として擁護したい。


これはのちにオタク界隈では、文学や知性を、抜いた、セカイ系や、エロゲームなどが、潜在的にハルキを、系譜するという皮肉を、生んでいるが、これは、春樹と、まったくラノベエロゲーと同じではないことは再三付け足しておく。

オタクは、勘違いして、偉ぶらないようにね。日本のオタクは、もはや現実さえ見えてないのだから。よくラノベを、文学で並列させたがるが、それはありえない。大半のオタクカルチャーはたんに、ポルノでしかないのだから。

これは、春樹以下の、見も蓋もない動物的な消費活動しかない。こういう人種が春樹をバカにする資格はないだろう。

その点、まだ柄谷は、批判の資格はあるのかもしれない。