心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

心と体の結びつきから生き方を考える

身体と精神が結びつかない人がいる。

 

ゆえに、身体的な「全体性」のために、表現を生きる必要があるか、考える。

必ずしも精神的に向き合う必要があるのか。ストレスに対処する、身体的な妥協を、遊戯や箱庭でイメージを生きることは、一定の効果はあるが…

 

身体の、精神化。精神的な把握をしたい。

 

そもそも、心身症は、心や身体による「発散」ではなく、表現を生きる、第三領域で考える。

 

精神的なことを、身体化したり、心をカウンセリングしたりするのが答えではないし、容易ではない。身体表現性の人は、その短所が長所にならずに、身体的な妥協しかできない。

 

心身症やヒステリーや境界例や、表現性障害は、心と身体が不一致で、体の一部が、異物化している。「物語る力」が重要になる。

 

だが、フロイトは、一時的に、こういうカウンセリング的な、お話し療法で、治ったように見えるのは、一時的に過ぎないという。ユング的な、個性化の問題を孕んでいるからだ。

 

内的な感覚に、「気付けない」がゆえに、身体と情動、体と心の和解、アレキシサイミアやがあるとし、心身の和解「という安易な物語論」に結びつける。

 

医学は、失われた、心を取り戻し、心理学は、むしろ身体を取り戻すというのは、患者より、医学や心理学の立場の身勝手な、「解釈」に過ぎないのではないか。

そういう「全体性の回復」がまるで、信仰されているかのように。

 

 

人は、そもそも、乖離や分裂は、不可避であるという、現実性を認識する。それを統合的に、分裂や解離を否認するのがむしろ、神経症ではないか。(心身はむしろそうなるのだから、ではどう生きるか?の方が大事。それ自体、心身の乖離や不調和は人は避け得ない。)

 

発達障害が、核にある。想像力や空想や、内面や精神に、気付けないし、自己認識が持てない。「主体」がない。確立できない。自分の体を意識するモニターが機能しない。むしろ逆に、自己反省が過剰になれば、神経症に陥る。「主体」となる困難には、いわば、イニシエーションとしての、儀式的な、意味や、変容が必要になる。それは、切断と再生。

 

動物的な人や、大人になれない身体乖離の子どもたち(成人しても退行的に大人になれない人もいる)が、現代の稀な「精神病」を嗤うのも、裏を返せば、精神の確立された自我や大人を嗤い、侮蔑し、「精神」を認めないから、認められない不確かさが、「精神」にはあるからだ。

 

目に見えない「霊」や神やスピリットや神話を、信じている現代人はいない。動物的に、未分化で、主体がない方が、「精神」にかかわらないで済む。しかし、否認せずにはいられないくらいに、人は、精神や目に見えていない感覚に、いくらでも突き動かされているのだ。なにもいきなり霊や神を仏を信じろ、というわけではない。むしろ、それを目に見えないが、たしかに存在するものとして自覚した時点で、ただの、物理的な把握と、客観的な認知にすぎない。

 

むしろ、神や霊や、人智を超えたなにか、は、感知されないがゆえに機能しているのだ。精神を退けようとする精神の態度であって、身体と精神の調和は関係ない。それは、精神が精神を否認する結果としての身体なのだ。しかし、主体が、苦悩、葛藤を、認識するのは難しい。人は、一時的に精神病的になる。動物的になりたいという退行と、大人でなければならない自我の葛藤やアンバランスが、生まれる。

 

残酷なイメージのイニシエーションや切断が機能しないで、動物的次元に、退行してしまえば、身体表現性の問題や、身体化、行動化の規制がかからないままで、自我は、それを自覚しないで済む。そこには、自己成長にかかわる、「悪」の問題が必ずある。死や酷いイメージが付きまとうしかし、その過程をなんとかして乗り越えていけたときの、自我は、それまでとは違う。

 

イニシエーションがない時代の、退行はむしろ必然か。そういう「小児科」的な病や、発達障害的な、「動物園」の次元では、「精神(病)」や「大人」などは、たんに、笑われるだけなのかもしれない。精神や悩みや大人や悪の世界に、切断して、参入することがない時代的な宿痾なのかもしれない。

 

ストレス因子を退けたり、薬飲んでみたりするより、むしろこういう人たちは、そのストレスに立ち向かうべき自我や精神が生まれないし、必要としない(現代社会は死や残酷や自然に直面しづらい)ために、あらゆる症状の身体化の、未分化でも生きられるくらい豊かなのかしれない。下手に精神的に自立しても、今度は精神的な困難が生まれるくらいなら、「体に肩代わり」してもらう方が良い、という人の妥協かもしれない。

 

たとえば、ヒステリーや心因性嘔吐やパニック障害、社交不安障害や、身体表現性障害や、過敏性腸炎なども、主体の問題としてみるならどうか? そういう、小児から思春期や若年層にありがちな、(中年も、遅れてきた「思春期」的に、そうなる場合がある)

 

なにも、現実から逃げずに、主体を、確立したら治るとかではなく、そういう身体的な癖は、なかなか抜けない物だ。症状自体を治すより、裏のメッセージを見る。つまり、無意識からの欲求だ。自己発展や、現実否認の態度や、なんらかの生き方の変容や、ストレス的、トラウマ的な現実への、態度変更が促されている。上辺の病気を治すより、イニシエーションは、現代は、そういう身体的次元で現れるのかもしれない。

 

「精神」や「魂」の要請は、それをシグナルを送っている。病は、たんなるシグナルでしかない。個性化を見る時、病を治すのは目的だが、「魂の目的」や「魂の要請」は、「病を治す」のではない。病を治すのなら、また退行、逃避すれば良いだけだ。そういう身体的な患者たちは、精神や魂や精神的な発達や成長を、拒む「精神的態度」がある。

 

認められない現実や自分に向き合うか、「過敏性腸炎」に悩むか。

認められない現実や自分か、「パニック障害」なら、明らかに、自分や現実に直面するより、「肩替わり」だから、楽だ。「病気に悩んでいる」ほうが、心理的な負担が軽いし、生きているのに「悩みなど無価値」だと自我が判断してもおかしくない。

 

失恋や性的な被害でパニック発作になった人が、であるか? 現実の負荷を自我が統合できない「異物感」が、身体化するのだ。

 

そこにもやはり、大人になる上で避けられない、苦悩やトラウマ的事実が精神的に否認されている。たかだか、人に会う、会社に行く、バイトに行く、さえ、現実や、異物に出会うのだから。家族さえ。現代では、簡単に、家に退行できるが、イニシエーションや切断が機能しないまま、母性的な世界に閉ざされた人も多いだろう。

 

精神も、熱湯にゆっくりしか入れないように、精神は、ゆっくり発展し、否定を認められるように、発達していくのが理想だろう。

 

そういう「認めたくない現実」は、誰にでもある。この困難を、生きるという課題が症状の、シグナルであり、隠されたメッセージなのかもしれない。

 

身体化しているうちは、「精神病」にならずに済むのかもしれない。一長一短だ。身体化しているなら、精神的に悩まないで済む。悩む人が内面を持つとは、それなりのリスクだ。

 

だから、やりたくない仕事や対面のある、家族などの問題が、身体化でやり過ごすのは、現代人の避けようがない妥協なのかもしれない。身体化の病気の人は、症状に体の違和感に肩代わりさせながら、本格的な「発症」に至らないで済んでいるのだ。だから、当の本人が、「本当にどうしたいか」は、これらの説明を読んだ上でやるしかない。

 

カウンセリングを受けたら、こういう人たちは、精神的な次元に参入するわけだから、河合隼雄が指摘するように、「一時的に分裂的になる」のは、当たり前だろう。

 

それまで精神を否認してきた人が、精神的に直面する「現実」などより、過敏性腸炎(身体)に「悩む」方が良い。

性的な被害、失恋や会社に怯えて辛いなら「パニック障害」に「悩む」ほうがよい。

 

こういう人は、「病気に悩む」が、「内面的に悩む」ことはない。それをしたら、まず、否定的な精神は避けられないからだ。

 

だから、自分が、どうしたいのか?は、よくよく考える必要がある。

 

河合隼雄は、それを説明して、大抵は、「病気をやり過ごしながらそれなりに生きていく」という人が、ほとんどだそうだ。

 

カウンセリングすると悪化したり、医者やカウンセラーに難癖をつけたり、転移をするのは、防衛機制なのだ。

ほとんどの人は、ユングや心理学者がやるような、イニシエーションや分裂病的なイメージの困難さや、自我や精神の確立は、大変だ。ほとんどが、生活に追われているわけで、容易な作業ではない。

 

人は、「病気について悩む」から、ほとんどの人は、病気を薬や対症療法なら、それで良いとしているし、それが答えなら、それでも良いだろう。

 

なにも、自我の無意識の要請にすべて応える必要があるかは定かではない。たとえば、無意識が、実はピアニストになりたかったために、表面上、パニック発作になった人が、自分は会社員として死にたくない!と、それに気づいたとして、今度は、サラリーマンを辞めたり、仕事をしながら、ピアニストを目指す「困難な自己実現」は、楽しいばかりではないのだ。

 

もっと問題なのは、ピアニストになるとか、YouTuberになるとかも、実は、逃げのための口実になる場合がある。だから、バカンスのような休暇やリフレッシュや風俗的な遊びや祭りで気分転換が必要なのだが、ほとんどの人が、思い詰めるほど、現代人の生活は淡白で、リフレッシュなどする暇などないのではないか? 

 

 

ヒステリーになった妻が、実は不貞の夫と別れて、第二の人生や自己実現を目指すにしても、それは、容易な自己形成をお手軽にできる問題ではない。現実的に、また再婚や生活や趣味が生きがいになるかは、思いつきでは簡単ではない。

それだったら、人は、ほとんど病態に、退行するか、妥協しているのがほとんどだし、今のままより良くなって欲しいわけで、総入れ替えを望んでいるのは限られた人だけだ。

 

 

 

無意識の要請に、魂や前世や神の意志を受けとめて、生き方そのものをなにがなんでも形成するのは一部でしかない。

 

そうでないと、むしろ「社会(やりたくないことをやって生きざるえない人)」がいないと困る。むしろ、芸術家は、そういう人たちの、無意識の集合的な魂の課題と繋がる必要もある。利己的な芸術家ごっこも自我の逃避的な欲求である。よくクリエイター気取りもしたくなるのも、葛藤や劣等感を避ける機序でしかない。

 

問題は、医者や心理士が、押し付けがましい「全体性の回復」を、望まないことだ。「望む」のは、あくまでクライアントである。そういう人たちが、必ずしもアーティストになる必要はない。

 

たとえば、私は、パニック障害の患者に出会ったが、彼は、病気を治したい、普通に暮らしたいが、できないのである。彼は、たんに普通に暮らすことが、アーティストより、切実でないだろうか。絵を描いていないと自分ではないという飢えや、歌を歌わないと自分ではない、というアイデンティティの人は、無人島に行ってもやっているだろう。それくらい必然的なアイデンティティなのだ。そういう人は一部だ。

 

だから、私が、いくら客観的に分析が優れていても、そのクライアントの生き方やテーマを提示できるとはいかない。「あなたは音楽に向いていますね」とヒントは必要ない。

 

他方、発達障害的な傾向から身体表現性障害の心気症的な患者に、「自分は統合失調症でアーティスト肌で頭も良い」とアピールされたら、その自己認識を、一時的に認めるしかない。パニック障害の人が、さりげなく、家で実は、「ピアノの練習をしていて」とか、心気症の人が、「ギターの練習をしている」と言ってくることはよくある。カウンセラーは、よく話を聞かないといけない。「最近、花や植物を見るのが好きだ」とか目覚ましく精神科医顔負けの心理学の知識を手に入れている人に、「あなたは音楽家や心理学者やアーティストとしての人生を生きるテーマを背負っている」などアドバイスしてはいけない。世の中にはそんなにアーティストになりたい人や、アーティストだけがいる必要などない。だから、アーティストにならざるえない使命や必然は、限られた人にしかない。それは、無意識から集合知や感覚を、取り出すことに優れた人生である。みながみなアーティストになるとは、必ずしも正しくはない。しかし、ユングは、そういう傾向がある。

先程の、パニック障害の人のように、もしかしたら、本当に、ピアニストに目覚めるパターンもあるが、彼の自我は、やはり、友達と遊びに行ったり、普通に暮らしたいのだ。だから、魂が、ピアニストとしての創造的な人生が必要かは、クライアント次第だし、どのようにいくら優れた資質があろうと、それを「魂の要請」だから、と心理士や医者が早合点しないほうがよい。アーティストになっても悲惨が必ずしも避けられる保証がないのは、古今東西の、アーティストの悲劇や人生を見ればわかるだろう。自己実現やアーティストだから、楽しく生きられる保証などない。

 

正解は定かではないが、少なくとも身体化する問題を抱えている人が、なんらかのオーダーを、受けている人なのは、言うまでもない。生き方は本人たちが、考えるのである。

人間に対するアレルギー反応について

人間に対するアレルギーという自己免疫系の混乱状態がある。それは、異物感のことだ。つまり、風邪でもないのに、風邪のような炎症、アレルギー反応を見せる。風邪のようでなくても、パニック発作のようなものも関係がある。心理的な基盤に「敵か味方か?」がある。

 


パニック症候群には、自分と自分以外の関係を、徹底排除あるいは心理的な同一化するか、ゼロイチ思考回路がある。人との適当な距離感をつかめない人ほど、このような症状になる。ストレスに対する対処法などが、分からない人も多くいる。

 


アレルゲンは、種々様々だが、それは、「人」にまつまる状況になる。

 

心理的に不都合なトラウマなら極端に退けようとなるのは当然だと思われる。

 


人や状況次第では、咳やくしゃみが、なんら特定のウィルスや埃がないのに、出るのは「異物としての人(や状況や記憶)」という観念が働いている。パニック発作や社会不安も、不適切なストレス状態を極端に「排除」しようと働きやすい。過敏性腸症候群なども、ストレス耐性が、何らかの理由で保てない時に、排泄的に働くしかない。

 

俺は、こういうのを自己愛の闘争劇(闘争)と呼んでいる。心身症の人は、基本的に、こういう人間関係や愛情にまつわる問題を心情的に把握できない。アスペルガー的特性や、知性や、逆に無知や知能が乏しく、身体のストレスや心情を感じけれない。いわゆる敏感性と鈍麻を持っている。

 


現実的次元でパトムのような自己臭症や対人恐怖やガス異臭に結びつけているが、実際には、人の「アレルギー反応」の心因的誤作動である。

 


今のように、文明化がすすめば、共同体や地域社会、会社、学校が、宗教や家族などが希薄化、空洞化し、崩壊すれば、「周りが敵か味方か分からない」状況や人が発生する。社会不安や人間関係不安が高いのだ。

 


心理的な認知的トリガーがアレルギー反応に出るが、その反応自体のきっかけがそもそも人間に対する敵意や怒りの、フロイト的な「転換」あるいはヒステリーに近いだろうか。

 

不都合な現実や心的認識、自己認識に至らないようにする周到な合理化であり、「人間」への無自覚な異物感や極端な排除思考と、それに伴う過剰な自己防衛ととれる。潔癖で、強迫的で、しっかりしようとして、むしろ直面を避けようとしがちになる。

 


あるいは、アレルギー反応で「ストレスを排除」する、という独特の過敏性があるなら、発達障害的な独特の過敏性ともいえる。

 


人間全般や特定の状況や人物に対するアレルギー反応となって現れてしまう。実際のところ、慢性的なメンタルヘルスに罹る人は、体に炎症がある。鼻詰まりなども患っている。

 

 

 

 


敵が味方か?という極端な感覚が、アレルギー的に変換され、誤作動を起こす。これを「心底」治すには、人間関係の「再構築」という心理セラピーが必要になる。

 


実際、体の炎症は、食生活よりも、心理的ストレスの方が実は強く現れる。

 


不必要に、交感神経優位で戦闘体勢の誤作動ならパニック障害心身症などの人が、慢性化した身体の「炎症」やアレルギー反応を、同時に引き起こしているのはうなづける。

 


ゲームやスマホや過激なコンテンツや嗜好品により、敏感性を持つ人が、心底リラックスできていない、ということだ。

 


敵意や不安や恐怖が基盤にあるかぎり、心理的な炎症は避けられない。

 


心因性のものは、サイコセラピーや癒しが、必要になる。その人が、人を「敵か味方なのか」の自律神経と脳神経にまつわる「心の問題」によって見るなら頷ける部分はある。薬をばかすか飲んで治るとは到底思えない。

 

私としては、これは、人間という「関係性」の病であり、1人で治せるものとは思えない。むしろ「人々」が、このような関係性を、どう捉えなおすかという部分が大きいように思う。

 

とりあえず自分のためです

注 必ず専門医の判断や相談に従ってください 個人の体質によります

 

 

自分は、発達グレーゾーンには、1ジフェンヒドラミントラベルミンもまあ良い。2ブロモバレリル尿素トリブラサイム。無難に3アネロンかな。この3つは、最強しょ。発達障害グレーゾーンにも活用できると感じている。

 

これらは、酔い止めに過ぎないが、鎮静系の抗ヒスタミンだ。とくにトリブラサイムは、慢性疲労系や、力が抜けない発達系の「眠剤」として代用できる。だから夕方にかけて飲むタイミングだな。

 

グレーゾーンは、病気か曖昧なので、ガチの抗精神薬は要らない。

 

炎症体質や栄養の偏りがあるので、なるべく中枢神経興奮をさせづらくする必要がある。

 

コーヒーや糖質は、「控えめ」がよい。

 

そんなに興奮すると、ますますチックやパニック障や吃りみたいなのや、筋肉のピクピクなど、症状は多岐に渡るが、抑えりがつかない。

 

とは言え、酔い止めには無水カフェインは最初から入ってるから、コーヒーは余計だ。

 

一、二杯のコーヒーを、控えめにゆっくり飲んだり、おかしのオヤツをシリアルバーみたいなよくある栄養バーを、食べたりする。

 

それだけで、嘘みたいに変わる。

カフェイン

周りの発達系(グレーゾーン)の人も、かなりコーヒー飲んでたな。ほんとは良くないはず。昨日、抗ヒスタミン系の酔い止めを紹介したが、カフェイン入ってるから。

 


カフェインを過剰に摂取し、中枢神経系が過剰に刺激されると、めまい、心拍数の増加、興奮、不安、震え、不眠が起こります。 消化器管の刺激により下痢や吐き気、嘔吐することもある。

 


基本的にタンパク質不足すると糖質を、とりたがる。コーヒーも、気づけに飲みたがる。

カフェインは控えて、炭水化物中心をやめる。炎症、アレルギー体質になって 中枢神経が興奮、脳が炎症。

タンパク質中心。まったく糖質を摂らないのも危険だし、 減らすだけで良い 夜寝る前はなるべく控えめ。

ホエイよりソイプロテインでもよい 胃腸弱い人が無理矢理取っても逆に気持ち悪くなる。

 


しばらくは、抗ヒスタミン飲みながら、食生活を、タンパク質中心にシフト 主食をプロテインやタンパク質にして、炭水化物をおかずにする お菓子ばかり食わない ジュース? スタバ? 控えめに パスタ どん物 ラーメンとライスセットはヤバいね。過剰な偏り。

 

そんなことで発達障害こじらせても、周りを責められないしな。

 


身体の炎症やアレルギーがヤバいから発達も拗らせ。

 グレーゾーンの人は尚更敏感体質が悪化 抗ヒスタミン剤で抑制しながら、体質を変えていく。

 

抗精神薬は、うつやパニック障害みたいな二次的メンタルヘルスがない限りは避ける 発達障害グレーゾーンは、精神障害でもないしとか、カウンセリングは意味ないどころか 有効性は眉唾物。

 ソーシャルスキルを身につける必要と 欠点は無視するほうがよい 高機能自閉症は、社会性が低いアスペルガータイプの人もいる (自分)。

 


慢性疲労の人は、抗ヒスタミン飲んで夜の糖質を減らしてゆっくり寝て欲しい 。朝の目覚めがスッキリしてるはずだからね。カフェイン接種癖から抜け出す必要がある。

 

カフェインで、気合い入れるんじゃなくて、カフェインはほどほどにして、やや眠いかな?くらいのリラックスが大事。だるいのはカフェインではなく、糖質や血糖値やタンパク質、栄養不足。発達系の人は、偏りがあるから、やたらと糖質やカフェインとりたがる。中枢神経やアレルギー体質や炎症を喜ばせているのは、自分。

酔い止めの副産物

注 まえがき

個人的な話なので、真似はしないでください。適切な医療にかかってください。

 

本題。

過敏体質のアレルギー、発達障害の人は、実は、精神薬物よりも、酔い止めや、花粉に使うような抗ヒスタミン剤で、中枢神経の抑制を行うと良いかもしれない。しかし、いま発売されてる、いわゆる第二世代の抗ヒスタミンではない。あれは、鎮静作用はあまり期待できない。抗ヒスタミン作用は、よく体感的に「眠くなる」これが効いてる作用だ。

 


俺は、アネロン(これはわりと眠くなる場合がある)を使う。 マレイン酸フェニラミン だから鎮静効果がある が、他方無水カフェインを孕んでる(中枢神経興奮)。だからコーヒープラスして、飲む場合もある。(いや飲んだらダメだが)

 

 


アネロン、マレイン酸フェニラミン だから鎮静効果がある。が、他方無水カフェインを孕んでる(中枢神経興奮)。

 


俺は、わりとやくにたってる気がする。

 


どうしようもないときはロキソニンを躊躇わずに使うが…とくに頭痛は仕方ない。

 

 

 

とくに仕事の大事な時や人と会うのがキツい人。アレルギー体質や発達障害は、「過敏体質」だからな。

 


そもそも、中枢神経抑制作用は、基本的に、精神障害の人が使う。たまに眠れない人にも抗ヒスタミンは使うが。

 

パニック障害や不安の人にも、そういうの濫用はすべきではないしな。抗ヒスタミンは不安には効かないから期待するな。

 

発達障害眠剤としては悪くない。実際、発達障害のやつはアレルギー持ちが大半、身体に炎症がある。

 


気休めかもしれないが、酔い止めや抗アレルギー剤は、いざというとき、もしものために、使えば有効になる場合はある。

 

俺は鎮静系の酔い止めでアネロンにしている。普通のやつは第二世代だから鎮静効果は少ないし実際眠くなりづらい。というかあまり意味ないと思う。「眠くならない」というのは、脳に機序がないからだ。それがある意味使いやすさなのだが。

 


発達障害者は、自律神経や脳の中枢神経に障害が出やすい。

 


俺は頭痛、吐き気や軽いアレルギーがあるが、いざとなれば、アネロンは使う。毎日はさすがにやらんが。あとは、ある程度は、我慢するしかない。グレーゾーンが、抗精神薬はやめた方がよい。

 


以下は機序になる。一応やや専門的な解説だから、意味はないかもしれないが、他サイト引用。 

 


NSAIDsの主な効果は、炎症がある局所におけるプロスタグランジン(prostaglandin;PG)の産生阻害です。

では、眠気の起こる作用機序について把握していますか?眠気・倦怠感などH1受容体拮抗薬による精神神経系症状について、詳しくみていきましょう!

H1受容体拮抗薬は、ヒスタミンとH1受容体との結合を競合的に阻害し、アレルギーの原因であるヒスタミンの作用を抑制することで抗アレルギー作用を示します。

H1受容体は中枢神経にも存在しています。ヒスタミンが中枢神経に存在するH1受容体に結合することで覚醒や興奮が保たれています。H1受容体拮抗薬により、ヒスタミンのH1受容体への結合が阻害されると中枢神経系が抑制され、眠気・倦怠感などが起こります。

 


また、中枢神経に存在するヒスタミンH1受容体は、痙攣の抑制系に関わっています。H1受容体の遮断作用が強く発現する事により、痙攣の抑制系が抑えられなくなり、痙攣が起きてしまうこともあります。 引用終わり

 


つまりH1受容体の遮断作用ってのが、キーワードで、発達障害者にも、有効かなと個人的には、飲んでて感じる。まあ、気休めだ。俺は、マレイン酸フェニラミン を吐き気止めるために使うから。実際、アネロンはかなり使えると思う。目眩や頭痛の予防にはなる。とは言え無水カフェインが余計かもしれないが、バランス良いかもしれない。無水カフェインは中枢神経興奮させるからな。抗ヒスタミンと無水カフェインのバランス感覚がアネロンの強みかもしれない。そういう時思うのは、抗ヒスタミンとコーヒーか、アネロンだけ飲むか、だな。まあ、マレイン酸フェニラミン の効き目がそれなりだから、鎮静感があるが。ちなみに頭痛にはアネロンは俺は効いてない。

 


アネロン、頭痛ならロキソニンしかない。アスピリンとかはなんかダメだ。

 

 

 

精神薬物は、よほどパニック障害とかで動けない限りはやめとく。断薬が面倒すぎる。離脱症状や副作用がヤバいから、昔にやめた。

 


自分の体になにが起こっているかは、厳密には、過敏体質、アレルギー体質。反応しすぎているのだ。まあ、現代病だな。体質がみんなアレルギー体質、炎症体質になってる。食生活以外と大事だな。炭水化物や肉ばかり糖質ばかりは、炎症体質一直線。

 


反応しすぎを抑えるために、使う。ということになるだろう。気休めだが、酔い止めのアネロンは最強だな。はっきり言って酔い止め効果より「副産物」がありがたい。実際乗り物酔いひどいし。

 


俺は乗り物に乗らなくても、乗り物酔いみたいな中枢神経障害になるから、まあ使えるよ。真似はするな。間違いの情報かもしれないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

グレーゾーンの人もストレスやなんらかの理由で、そうなる。一時的にチックになるからな。まあ、リラックス大事だと思う。コーヒーもほどよくだな。中枢神経興奮しすぎ。コーヒー飲み過ぎて笑 自業自得。

 

なのにコーヒー飲むなよって話)

 

 

 

 

 

 


発達障害者は、自律神経や脳の中枢神経に障害が出やすい。

 


俺は頭痛、吐き気や軽いアレルギーがあるが、いざとなれば、使う。毎日はさすがにやらんが。

 

 

 

 

 

頭痛ならロキソニンしかない。

 

 

 

 

 

反応しすぎを抑えるために、使う。ということになるだろう。気休めだが、酔い止めのアネロンは最強だな。はっきり言って酔い止め効果より副産物がありがたい。

 


俺は乗り物に乗らなくても、乗り物酔いみたいな中枢神経障害になるから、まあ使えるよ。

 

 

 

 

 

 

 


ちなみに、発達障害の人が、てんかんやチックや痙攣がでるかは、基本的には、乳幼児や未熟児が、GABA(γ-アミノ酪酸)などによる中枢神経の抑制系が十分に発達していないかららしい。まあGABAは取りづらいわな。昔、GABAチョコ食ってたし、本気で頭にGABAを作用させるには大量に飲まないと多分効いてない。だから市販のGABAはある意味詐欺だ。

 

1ジフェンヒドラミントラベルミンもまあ良い。2ブロモバレリル尿素トリブラサイム。無難に3アネロンかな。この3つは、最強しょ。発達障害グレーゾーンにも活用できる。

 

まじで、「悟りの境地」みたいな穏やかさ、静けさに至る。持続性ならアネロン一択。いずれも安いし買いやすい。

 

タイレノールアセトアミノフェン)に関しては、実験中。

 

自分なり発達障害グレーゾーン対処 箇条書き

注意 あくまで自分なりの対処っす。

 

カウンセリングは必要ない。
薬は必要なら使う。(主に二次的なメンタルヘルスや中枢神経障害のため)
それよりも環境整備や対人関係整理や、ソーシャルスキル
仕事選び。
治そうとしても意味はない。脳の仕組みを考え方でどうこうできない。
発達障害は、中枢神経障害。それを気持ちでどうこうできるはずはない。
薬に頼っても構わない。カウンセリングで「発達障害を治す」ことはない。
あくまでカウンセリングは、周りの人や当事者の、「こころのささえ」でしかない。
仮に、発達障害でも、長所があったり、言語能力、知的能力がある人もいる。
ゆえに、社会で生きている可能性は十分にある。
自分の障害の取り扱いをきちんと把握しておく。
発達障害の人に限って、欠点を1から10まで探して、それを全部克服しようとして、
定型と比べて落ち込んでを繰り返していると二次的なメンタルヘルスになる。
できないことや、ないものねだりしない。
仕事は、なるべく一人がよい。
対人関係は、割り切る。スキルでかかわる。
感覚過敏は、対策を講じる。
自分は聴覚なので、イヤーマフ
中枢神経障害のための薬は用意しておく。
二次的な精神障害には、きちんと、発達障害が基にあることを認めたうえで対症療法的に使っていく。
根治治療という途方もないプロセスを発達障碍者はテーマにしてるが、そんなことより生きがいややりたいことに集中
したほうがよい。
カウンセリングや栄養療法はきやすめ。スピリチュアル的な意味や使命が事実だとしても、「治る」ってわけではない。
「特性」を生かして、生きるすべやスキルを身に着けると考えたほうが良い。マイナスを探すよりも、マイナスはそのままで、
プラスの選択肢を「増やす」というほうが、よい。引き出しを多くしておくほうがのちのち役に立つ。
自分を精神障害やだとかたくなに思い込まない。自分は「グレーゾーン」だという自己認識を持つ。
理解を期待しない。きついかもしれないが、その苦しみや病気を正確に把握している人は限られている。
発達障碍者でさえも、ほかの発達障碍者をまったく理解してない。精神科医も。
発達障害を「カウンセリングで治そう」とするより、理解のある人のアドヴァイスや支援を「活用する」というほうがよい。
精神セラピーは有効ではない。それなら薬を飲んで、リラックスしたほうがよい。

よろしい地獄へ行こう

文章を書く行為は圧縮であるといったのは、誰だったか。トーマスマンが「精神の危機」をなんとか文章を書くことで乗り切ったというエピソードを中井久夫だかの本で
読んだことがあった気がする。出典は忘れて定かではない。要は、カウンセリングで自己の体験を客体化、対象化することで、治療効果があるということだろう。
 実際、起こったことを、言語ですべて説明することはできない。なんでも言葉にして単純化したり図式化することで、現実を淡白にしてしまうデメリットもある。

これは、自分に対する文章である。だから脈絡はない。唐突に小咄が始まって終わったりする。気ままに、というのが随想というものらしいが、小林秀雄の随想の読みづらさ
みたいな感じもそういうことだろうか。とはいえ、脈絡とつながりがないようで、実際は意味もあったりもする。

 さて、なんでまた文章か。自分は文学を志した人間である。ポストモダン派の人間やインテリからしたら、なぁにをいまさら「文学」と鼻白むということだろうが。
日常生活やこの社会において、文学だとか哲学というものは、欠落している。人間性もまた疎外状況にあるというのは、いまさら言うまでもない。
 たんに、日常に対する私怨の復讐心と下卑た笑いと差別主義が横行しているだけで、それが周到にメディアやサブカルチャーや若者の動画やネット文化にも
完全に根付いている。こういう時代において、文学などとまるで有効性を得られるとは思えない。

 個人談だが、最近、「精神の危機」を感じている。とはいえ、それは自覚的なもので、遡ってみれば、それはいつだって本当はそうだ。赤子が産湯にいるときから、
幼稚園に入るときから、今に至るときまで、本当は常に、精神の危機なのだ。だから、いまさら危機といっても、それは人間の平常は、安念ではなく、危機的な生存本能
であるから、要は、危機を意識しているということになる。

 そうはいっても、俺は、おべんちゃらが嫌いで、たとえば、ものはとらえよう、という言葉が嫌いでものを捉えている暇があるならぶつかっていくほうなのだ。
ニーチェをわざわざ引用しなくとも、そもそも世界は、意識の志向性と
解釈に過ぎない。だから、危機といえば危機だし、安心といってしまえばそうだ。一時的な瞑想でなんとなくすっきりした、などいう話もあるは、人生の「核」はそんな
軽いものではない。重いものでもないだろうが、それでも、意識というものが人生の重みを軽量するものでしかないにしても、気休めにしかならない。
 
 根治治療にしても、俺はいくらでも試した。カウンセリング、薬、瞑想、仏教、精神分析。栄養剤や漢方も無駄ではなかったが、気休めだ。
結論から言うと、もう降参してしまうのが得策だ。というも、俺は、最近、自分の生きづらさの正体に気づいてしまったのだ。いや、気づいたなどというのは、
あくまで現実的な解釈にすぎない。自分が神経症であろうが、発達障害であろうが、そんなことは、問題ではない。人生は、仏教曰く、「苦」「無常」で
あろうが、それに人間様が逆らうこと自体が、おかど違い。ということだけが俺は言いたかったのだ。お前は無抵抗主義の冷笑家で、現実を追認しているだけ
ではないのか? と問われても、俺は、べつに悔しくもない。たんに、絶望と地獄を喜んで認めようということだ。大江健三郎ではないが、俺は、もう半ば「ヤケ」
になって、絶望しよう、地獄へいこうではないか? と。大江健三郎は、ハックルべリイを以て、次のことを、書いている。
≪それは苦しい立場であつた。私はそれを取り上げて、手に持つてゐた。私は震へてゐた。何故といふに私は、永久に、二つのうちのどちらかを取るやうに決めなければならなかつたから。私は、息をこらすやうに
して、一分間じつと考へた。それからかう心の中で言ふ。「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」― さう言つてその紙片を引き裂いた。
それは恐ろしい考へであり、恐ろしい言葉であつた。だが私はさう言つたのだ。そしてさう言つたままにしてゐるのだ。そしてそれを変へようなどとはー度だつて思つたことがないのだ。≫

そう、たぶん、自分にとって必要なのは、お笑いでも、薬でもなく、結局は、文学であり「詩」なのだ、ということだ。それは、音楽にしてもそうだ。「詩」のない文学も
音楽も、終わっている。人の魂を顕揚したりはしない。

 ここ最近の精神医学のトレンドは昔に比べると軽症で、発達障害系の人が増えたという。なるほど、薬がやはりいかに有効であるか、ということを物語っている。
どうしても、俺たちは、心を扱うときに、「心理的」になりすぎる。とくに俺のような文学的、心理学的な人にとっては、ユングや深層心理で、いかにも心を
ナラティヴに丁寧に扱いたがる。しかしメリットもデメリットもあるし、「心の深層」を求めている人など、ごくわずかにすぎない。

 ほとんどの人が、俗物で即物的である。たんにエゴイズムで幸せになりたいばかりに地獄に落ちている。だから、薬でてっとりばやく四の五の言わずにラクになるべきだ。
俺は、カウンセリング至上主義ではない、というか、世の中はなんでもカウンセリングしたがるし、相談したがる。俺はバカだと思っている。たとえば発達障害には
カウンセリングの有効性は、皆無に近い。中枢神経の障害は、言葉でねじ伏せられない。実際、フロイトは、言葉をつかってヒステリーを落ち着かせることに
成功したことがあるが、それは結局は再発したのだ。俺は、薬をもっと、安全に使えるような技術の、科学の進歩のほうが大事だと思っている。
 俺は心を扱うときに、魂を扱うときに、河合隼夫の心理カウンセリングや村上春樹のような、「心をに向き合う」ということ、もっというとユング深層心理学
ようなものが、たしかに、理想だということもしっている。とはいえ、人は、心を開放すれば治るわけでもない。それは、自分の「ものがたり」が必要ということだ。
これは、河合も言っている。つまり、人生における「異物」を「遺物」にできる、ワークのことだ。それは、文学でもあるし、サブカルチャーの中にもあるだろう。
 低俗とみられるお笑いにも、救われる要素はあるし、花を育てて治っていく人もいる。「人それぞれの回復」それは、俺にとっての文章や文学や音楽であること
は間違いないだろう。これから、俺が外務省に勤務できても「いやし」はもたらされない。そういうことではない。それは、外面と内面が一致したときに、意味があることだ。
東大にいっても、経産省で働いても、内面の光が一致しなければ、寿町にいようが西宮にいようが、「しあわせ」はどこにでもある。

 たとえば、荒療治ということがある。ニートがうんともすんとも言わなかったのに、戦争もののFPSや格闘ゲームで相手を殺して殴ってヴァーチャルな体験をして、
自分の中の攻撃性をより合理的な方法で活性化し、再統合することで、「元気」になっていくということもあるのだ。これは、いかに、道徳や正義というものや、
一概に品行方正のカウンセリングというものの、いちいち自助グループや組織や、多額のカウンセリング費用など茶番にすぎないかを言っている。
 どんなにまじめな「少女」も汚いおじさんと不埒なセックスをして、「生き返った」「快感を得た」ということがないとは言い切れない。とはいえ、俺は、
そんなものは進めたくはないが。笑
 
 就職したからといって「回復」するわけではない。彼らは、社会で「死んでいる」のだから、家に帰ってオナニーやセックスや暴飲暴食、殺人ゲームをやって「よみがえる」のだ。
 俺は、「正しすぎて」家でも、「真面目」になって勉強や本を読んでいたりもしたし、瞑想や仏教も嗜んでいたし、悪業に怯えてオナニーさえ罪悪感と
来世のツケのような気持でいたが、いまは、少し考えも変わっている。そういう「正しすぎる」ことが、いかに頭をおかしくさせるのか、ということだ。
 プレイセラピーで破壊的な表現をする児童というのは、治りやすいと思う。むしろ、無機質で平面的な人のほうがまずい。家に帰っても、
どこにいっても、「平面的」な人は、息継ぎをしないまま泳いでいるということだ。人間は「羽目を外す」必要がある。
 人は、心にヒトラーファウスト的な悪魔を本当は飼っている。それをどう合理化できるのか、統合できるかが「成熟」だと思う。
人を気づけずにゲームで「人殺し」をして子供が喜んで、生き生きとしていたら、「やめさせる」親は、かならず、家に「平面的」な隙が生まれる。
それは、いじめや抑うつにあらわれたりする。ゲーム程度なら依存の度合い深くなければやらせるべきだ。人はそういうことこで創造性や破壊やエロスをヴァーチャルに
学んでいるのだ。飲酒や喫煙も、死ななければ、笑い話でしかない。そんなことに「目くじらたてて排除する」ということになると問題だ。「適当にこらぁと殴っておく」
ぐらいのことが、失われるほうが怖いことだ。逆に「寛容」でありすぎるのも、これも問題だ。「子供が悪さ」することに「寛容」であることがリベラルではない。
 
 

 それこそ、彼女ができたり、趣味ができたり、セックスしたりて救われる人もいる。そういうのを、「カウンセリングでどうこう」ということ自体が、発想が貧困だ。
教育や道徳で、人をどうにかできるとか、法律を厳しくすればよい、という人は、「プレイセラピー」における、破壊性や攻撃性が、いかに、娯楽において、
有効な、ときにそれはエロスな妄想によって、人が「よみがえる」のかを知らない。だから、オタクのエロスやヴァイオレンスや家族観の非言語的な暴力とエロスを
「取り締まる」というナチスの時代には、いかに、人はダイナミックさを失っているのかを理解できる。だから、俺は、積極的に、現実で人を傷つけるくらいなら、
もっと残酷なゲームや映画やエロで楽しめといっている。そういう俗を知らない人は、「聖」もとても薄っぺらいものになる。

 しかし他方では陳腐で浅はかで皮相な「悪」というものも、実際には悪だと思う。エーリッヒフロムも、それをナチスに結び付けて「悪性のナルシシズム神経症
といっていたが、それも否定できない。俺が言っている「悪」というのは、自分が善に対して盲目であるということだ。江藤淳的には、「悪を引き受けて大人になる」
という創作的な自己認識に至るということだ。

 発達障害だの精神病だの治るに越したことはないが、適切な薬をのんだのちに、いかに自分が生きるべきかにシフトしていかない限りは、
病気だけの人生になる。気づいたときに治っていたとうのは、自分の生きることに目覚めた時だ。それはおのずからなるということで
自然治癒のことだ。人が元気になるのは、外的要因や条件付けじゃない。つねに、内的なものだ。それはたぶん「内なる光」だろう。
それは、病気を治すとか、障害を克服するというのは、あるまで二次的なもので、第一目的ではない。そういう内側から「生き生き」しているとき、
人は、回復のきっかけを導き出す。それはカウンセリングや薬だけの力ではない。そういうヒューマンな力は内側にもあるし、外側にもリソースがある。
集合的な叡智みたいなものか。そういってもそういう神秘的な人知を超えたものにアクセスすることは、おそらく内側の話になるだろう。

 想像してほしいが、周りの刺激や情報、状況に、対人関係に流されている人が、ぶれて、体調が不良になるのもうなづける。
自分というものへの防衛線が必要だ。無条件に接続状態になっているのがよくない。自分と他人のバランスが取れている人は、きちんと
線引きがある。侵犯しない。アクセスするのがいつも自分の内側だ。内側が「入口」だ。外にむやみに探すな。
 むやみに異性を、本を、ネットを探すな。全部いつも、自分の中にある。最初から宝箱は内側にあるのに、
人は正反対にいきたがる。夢と親しくしろ。無意識と仲良くなれ。どこかに理想の友人がいると探すな。自分の心に真の友がいる。
やすらぎと沈黙の。本当のことは、実はなにもしなきても、すべて内側にある。

 人の心だけが原因だ。悪業だ。説明がつかないことばかりではない。それは無知なのだ。ほとんどことは必然だ。
意味もある。なのに、知らんぷりだ。どうしてこんな悲劇というが、周りの人を傷づけているのだ。無自覚に。
周りの人に悪意や差別心があるんだ。そういう人が苦しいのは当たり前だ。よろしい僕は地獄へいこう。