心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

よろしい地獄へ行こう

文章を書く行為は圧縮であるといったのは、誰だったか。トーマスマンが「精神の危機」をなんとか文章を書くことで乗り切ったというエピソードを中井久夫だかの本で
読んだことがあった気がする。出典は忘れて定かではない。要は、カウンセリングで自己の体験を客体化、対象化することで、治療効果があるということだろう。
 実際、起こったことを、言語ですべて説明することはできない。なんでも言葉にして単純化したり図式化することで、現実を淡白にしてしまうデメリットもある。

これは、自分に対する文章である。だから脈絡はない。唐突に小咄が始まって終わったりする。気ままに、というのが随想というものらしいが、小林秀雄の随想の読みづらさ
みたいな感じもそういうことだろうか。とはいえ、脈絡とつながりがないようで、実際は意味もあったりもする。

 さて、なんでまた文章か。自分は文学を志した人間である。ポストモダン派の人間やインテリからしたら、なぁにをいまさら「文学」と鼻白むということだろうが。
日常生活やこの社会において、文学だとか哲学というものは、欠落している。人間性もまた疎外状況にあるというのは、いまさら言うまでもない。
 たんに、日常に対する私怨の復讐心と下卑た笑いと差別主義が横行しているだけで、それが周到にメディアやサブカルチャーや若者の動画やネット文化にも
完全に根付いている。こういう時代において、文学などとまるで有効性を得られるとは思えない。

 個人談だが、最近、「精神の危機」を感じている。とはいえ、それは自覚的なもので、遡ってみれば、それはいつだって本当はそうだ。赤子が産湯にいるときから、
幼稚園に入るときから、今に至るときまで、本当は常に、精神の危機なのだ。だから、いまさら危機といっても、それは人間の平常は、安念ではなく、危機的な生存本能
であるから、要は、危機を意識しているということになる。

 そうはいっても、俺は、おべんちゃらが嫌いで、たとえば、ものはとらえよう、という言葉が嫌いでものを捉えている暇があるならぶつかっていくほうなのだ。
ニーチェをわざわざ引用しなくとも、そもそも世界は、意識の志向性と
解釈に過ぎない。だから、危機といえば危機だし、安心といってしまえばそうだ。一時的な瞑想でなんとなくすっきりした、などいう話もあるは、人生の「核」はそんな
軽いものではない。重いものでもないだろうが、それでも、意識というものが人生の重みを軽量するものでしかないにしても、気休めにしかならない。
 
 根治治療にしても、俺はいくらでも試した。カウンセリング、薬、瞑想、仏教、精神分析。栄養剤や漢方も無駄ではなかったが、気休めだ。
結論から言うと、もう降参してしまうのが得策だ。というも、俺は、最近、自分の生きづらさの正体に気づいてしまったのだ。いや、気づいたなどというのは、
あくまで現実的な解釈にすぎない。自分が神経症であろうが、発達障害であろうが、そんなことは、問題ではない。人生は、仏教曰く、「苦」「無常」で
あろうが、それに人間様が逆らうこと自体が、おかど違い。ということだけが俺は言いたかったのだ。お前は無抵抗主義の冷笑家で、現実を追認しているだけ
ではないのか? と問われても、俺は、べつに悔しくもない。たんに、絶望と地獄を喜んで認めようということだ。大江健三郎ではないが、俺は、もう半ば「ヤケ」
になって、絶望しよう、地獄へいこうではないか? と。大江健三郎は、ハックルべリイを以て、次のことを、書いている。
≪それは苦しい立場であつた。私はそれを取り上げて、手に持つてゐた。私は震へてゐた。何故といふに私は、永久に、二つのうちのどちらかを取るやうに決めなければならなかつたから。私は、息をこらすやうに
して、一分間じつと考へた。それからかう心の中で言ふ。「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう」― さう言つてその紙片を引き裂いた。
それは恐ろしい考へであり、恐ろしい言葉であつた。だが私はさう言つたのだ。そしてさう言つたままにしてゐるのだ。そしてそれを変へようなどとはー度だつて思つたことがないのだ。≫

そう、たぶん、自分にとって必要なのは、お笑いでも、薬でもなく、結局は、文学であり「詩」なのだ、ということだ。それは、音楽にしてもそうだ。「詩」のない文学も
音楽も、終わっている。人の魂を顕揚したりはしない。

 ここ最近の精神医学のトレンドは昔に比べると軽症で、発達障害系の人が増えたという。なるほど、薬がやはりいかに有効であるか、ということを物語っている。
どうしても、俺たちは、心を扱うときに、「心理的」になりすぎる。とくに俺のような文学的、心理学的な人にとっては、ユングや深層心理で、いかにも心を
ナラティヴに丁寧に扱いたがる。しかしメリットもデメリットもあるし、「心の深層」を求めている人など、ごくわずかにすぎない。

 ほとんどの人が、俗物で即物的である。たんにエゴイズムで幸せになりたいばかりに地獄に落ちている。だから、薬でてっとりばやく四の五の言わずにラクになるべきだ。
俺は、カウンセリング至上主義ではない、というか、世の中はなんでもカウンセリングしたがるし、相談したがる。俺はバカだと思っている。たとえば発達障害には
カウンセリングの有効性は、皆無に近い。中枢神経の障害は、言葉でねじ伏せられない。実際、フロイトは、言葉をつかってヒステリーを落ち着かせることに
成功したことがあるが、それは結局は再発したのだ。俺は、薬をもっと、安全に使えるような技術の、科学の進歩のほうが大事だと思っている。
 俺は心を扱うときに、魂を扱うときに、河合隼夫の心理カウンセリングや村上春樹のような、「心をに向き合う」ということ、もっというとユング深層心理学
ようなものが、たしかに、理想だということもしっている。とはいえ、人は、心を開放すれば治るわけでもない。それは、自分の「ものがたり」が必要ということだ。
これは、河合も言っている。つまり、人生における「異物」を「遺物」にできる、ワークのことだ。それは、文学でもあるし、サブカルチャーの中にもあるだろう。
 低俗とみられるお笑いにも、救われる要素はあるし、花を育てて治っていく人もいる。「人それぞれの回復」それは、俺にとっての文章や文学や音楽であること
は間違いないだろう。これから、俺が外務省に勤務できても「いやし」はもたらされない。そういうことではない。それは、外面と内面が一致したときに、意味があることだ。
東大にいっても、経産省で働いても、内面の光が一致しなければ、寿町にいようが西宮にいようが、「しあわせ」はどこにでもある。

 たとえば、荒療治ということがある。ニートがうんともすんとも言わなかったのに、戦争もののFPSや格闘ゲームで相手を殺して殴ってヴァーチャルな体験をして、
自分の中の攻撃性をより合理的な方法で活性化し、再統合することで、「元気」になっていくということもあるのだ。これは、いかに、道徳や正義というものや、
一概に品行方正のカウンセリングというものの、いちいち自助グループや組織や、多額のカウンセリング費用など茶番にすぎないかを言っている。
 どんなにまじめな「少女」も汚いおじさんと不埒なセックスをして、「生き返った」「快感を得た」ということがないとは言い切れない。とはいえ、俺は、
そんなものは進めたくはないが。笑
 
 就職したからといって「回復」するわけではない。彼らは、社会で「死んでいる」のだから、家に帰ってオナニーやセックスや暴飲暴食、殺人ゲームをやって「よみがえる」のだ。
 俺は、「正しすぎて」家でも、「真面目」になって勉強や本を読んでいたりもしたし、瞑想や仏教も嗜んでいたし、悪業に怯えてオナニーさえ罪悪感と
来世のツケのような気持でいたが、いまは、少し考えも変わっている。そういう「正しすぎる」ことが、いかに頭をおかしくさせるのか、ということだ。
 プレイセラピーで破壊的な表現をする児童というのは、治りやすいと思う。むしろ、無機質で平面的な人のほうがまずい。家に帰っても、
どこにいっても、「平面的」な人は、息継ぎをしないまま泳いでいるということだ。人間は「羽目を外す」必要がある。
 人は、心にヒトラーファウスト的な悪魔を本当は飼っている。それをどう合理化できるのか、統合できるかが「成熟」だと思う。
人を気づけずにゲームで「人殺し」をして子供が喜んで、生き生きとしていたら、「やめさせる」親は、かならず、家に「平面的」な隙が生まれる。
それは、いじめや抑うつにあらわれたりする。ゲーム程度なら依存の度合い深くなければやらせるべきだ。人はそういうことこで創造性や破壊やエロスをヴァーチャルに
学んでいるのだ。飲酒や喫煙も、死ななければ、笑い話でしかない。そんなことに「目くじらたてて排除する」ということになると問題だ。「適当にこらぁと殴っておく」
ぐらいのことが、失われるほうが怖いことだ。逆に「寛容」でありすぎるのも、これも問題だ。「子供が悪さ」することに「寛容」であることがリベラルではない。
 
 

 それこそ、彼女ができたり、趣味ができたり、セックスしたりて救われる人もいる。そういうのを、「カウンセリングでどうこう」ということ自体が、発想が貧困だ。
教育や道徳で、人をどうにかできるとか、法律を厳しくすればよい、という人は、「プレイセラピー」における、破壊性や攻撃性が、いかに、娯楽において、
有効な、ときにそれはエロスな妄想によって、人が「よみがえる」のかを知らない。だから、オタクのエロスやヴァイオレンスや家族観の非言語的な暴力とエロスを
「取り締まる」というナチスの時代には、いかに、人はダイナミックさを失っているのかを理解できる。だから、俺は、積極的に、現実で人を傷つけるくらいなら、
もっと残酷なゲームや映画やエロで楽しめといっている。そういう俗を知らない人は、「聖」もとても薄っぺらいものになる。

 しかし他方では陳腐で浅はかで皮相な「悪」というものも、実際には悪だと思う。エーリッヒフロムも、それをナチスに結び付けて「悪性のナルシシズム神経症
といっていたが、それも否定できない。俺が言っている「悪」というのは、自分が善に対して盲目であるということだ。江藤淳的には、「悪を引き受けて大人になる」
という創作的な自己認識に至るということだ。

 発達障害だの精神病だの治るに越したことはないが、適切な薬をのんだのちに、いかに自分が生きるべきかにシフトしていかない限りは、
病気だけの人生になる。気づいたときに治っていたとうのは、自分の生きることに目覚めた時だ。それはおのずからなるということで
自然治癒のことだ。人が元気になるのは、外的要因や条件付けじゃない。つねに、内的なものだ。それはたぶん「内なる光」だろう。
それは、病気を治すとか、障害を克服するというのは、あるまで二次的なもので、第一目的ではない。そういう内側から「生き生き」しているとき、
人は、回復のきっかけを導き出す。それはカウンセリングや薬だけの力ではない。そういうヒューマンな力は内側にもあるし、外側にもリソースがある。
集合的な叡智みたいなものか。そういってもそういう神秘的な人知を超えたものにアクセスすることは、おそらく内側の話になるだろう。

 想像してほしいが、周りの刺激や情報、状況に、対人関係に流されている人が、ぶれて、体調が不良になるのもうなづける。
自分というものへの防衛線が必要だ。無条件に接続状態になっているのがよくない。自分と他人のバランスが取れている人は、きちんと
線引きがある。侵犯しない。アクセスするのがいつも自分の内側だ。内側が「入口」だ。外にむやみに探すな。
 むやみに異性を、本を、ネットを探すな。全部いつも、自分の中にある。最初から宝箱は内側にあるのに、
人は正反対にいきたがる。夢と親しくしろ。無意識と仲良くなれ。どこかに理想の友人がいると探すな。自分の心に真の友がいる。
やすらぎと沈黙の。本当のことは、実はなにもしなきても、すべて内側にある。

 人の心だけが原因だ。悪業だ。説明がつかないことばかりではない。それは無知なのだ。ほとんどことは必然だ。
意味もある。なのに、知らんぷりだ。どうしてこんな悲劇というが、周りの人を傷づけているのだ。無自覚に。
周りの人に悪意や差別心があるんだ。そういう人が苦しいのは当たり前だ。よろしい僕は地獄へいこう。