心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

本心に準じて弱くいけばよい

人の限界は、ルサンチマンそのものではないか。欲望、煩悩に負けることではないか。

 

最近、思うのは、「本質的な悩み」がないが、「なんか苦しい人」がいることだ。雑なカテゴライズが許されるなら神経症的反応である。 

神経症的とはいちいち「言い訳」を使ってみせることだ。逃げ口や言い訳が増える。それで、ひどいと身体の不調になる。

 


たとえば、それは「知性化」を図る場合がある。神経症や、強迫、反復行為だ。

やましいことがあるほど、知的に観念的に振る舞いたがる。

仏教や哲学を振り翳しても、日本社会を良くしたいとか言っても、ニートや不利な立場を正当化するための武器(or盾)でしかない人がいたりする。

 

社会的な居場所がないばかりに、力こぶ満点の知恵をひたすらツイートしたりして、誤魔化したりする。しかし、その実、行為的なことや意外なほど、他人に貢献したり団体で活動しないで、「孤立」しているのだ。

 


ちょっと頭が利く人間がルサンチマンに気付いても、たとえば、ニートを正当化して、働き詰めの畜群を「見下したり」分析している時点でルサンチマンそのものになっている。頭の悪い人が、「絶対悪」などない、と言っても、それは、誤った相対基準であって、現に思い込みであれ主観的にも、法規的にも、秩序、法、規範はある。たしかに、哲学や思想には、それ自体を「現象」として扱う場合があるが、無視してよいわけではない。ニートや犯罪を同レベルに語るわけにはいかないが、ニーチェなどの思想は、ナチスなどにも利用されがちで、ニートにとっても例外ではない。あとは、仏教や老荘思想などだが、あれらは、無職だけでなく、勤勉家にも充分適応できる。

 

 

 現実乖離の観念的なバーチャルアナーキストになったりして「浮世」から観念的離れてしまう人さえいる。いまは気軽にネットで「自己演出」が出来てしまう。

 


かりにニートや弱さやダメさを正当化したいなら、親鸞をやればいいのに「どうせ自分はダメ」と言う、素朴なそれが言えないばかりに…

 

やっぱり女を抱くのは諦められない! なんて言う、そんな親鸞は偉大だと思う。 

嘘つきニートの「高尚芸術」よりもだ。太宰治坂口安吾も見習うべきだろう。

 


仏教も哲学も堕落したやつの慰みものではないとは個人的に思う。勉強家や働きもののサピエンスのためのものでもある。特別、社畜や畜群だのルサンチマンだとか吹かす前に、まず「弱さ」に向き合って然るべきだ。だから、坂口安吾は、堕落論で、生きよ、堕ちよと述べた。その上で、自分なりに人は、天皇だの戦争だの女だの武士道だのと見出さざるえないくらいに可憐な存在だと言った。

 


畜群とか、ルサンチマンとか言ってるやつが、ミイラ取りがミイラになるを体現してる場合がありやしないか。

 

他人のルサンチマンを指摘して、それを超えていける程度の「超人」などいない。

 

他人のルサンチマンが許せないこと自体がルサンチマンだからだ。「おまえらは無自覚に安い酒のルサンチマンに浸れてずるい」でも自分は酔えない。まったく辛い話だ。

 


更に、文学、宗教、思想たんに厭人や嫌悪や実存的な空虚をかかえた「心のか弱い」文系青年、淑女を慰めるものじゃないだろう。もっとパワフルなもので、怠惰なものでもない。

 

 三島由紀夫も似たようなこと言っていた。田舎者が「自分に自信がない」と言うだけで、文学やら哲学で勝ち誇るなんてまさにルサンチマンではないか。ネットで自分を等身大より上に語る君は、ニーチェじゃない! ニートか働いていようが、基本的に嘘つきだ。

 


三島由紀夫太宰治に言ったように「乾布摩擦」して済むような自意識のことを、やれマルクスフロイトやらニーチェやらって情けない。

ならば、太宰治を読むか、親鸞をやれよと思う。

 「どうせダメ」なんだから認められないくらいに。

親や友人の前で、いやニーチェ曰く…ハイデガーが、とか言っても、おまえは自分の実存をそんなことで守れやしないだろ。命もかけてない連中がスマホ片手にパソコンの前で、なにができる?日本のヒッキーニートが。サボることだけだ。サルトルならサマになるさ。だってそれが彼の「実存的人生」だから。ニートに生態はあっても存在はないんだよ。カフカなんか関係ないよ。人とうまくやれないとか障害とか言って、それこそ、アンタより問題抱えてる人はどう説明つけるんだ。持ち前の「知性」で出来るのかい。

 

人の全存在が、肯定的に振る舞える生物など、観念的に知的にもありえない。

あるとしたら、「宇宙そのもの」だ。しかし、我々は、親や上司の前やら異性の前では、俗人そのものではないか。

 


「開き直ってよ、俺は働きたく無いもんねでも、あわよくば楽して飯食いたいしエッチしたいし、どんなに高尚ぶっても裏ではあーオナニーは止まらねぇ…」と言えないばかりに「いや俺はそんな畜群やリア充よりはまともだ。なぜならマルクスフロイトハイデガーはおろかドゥルーズフーコーアガンベンも熟知しているばかりか、サルトルのジュネ論も読んだからあんなクリスマスに手を繋いでいる連中なんかより幸せそうな家庭なんかより…マシだ、そうだどうせあいつらは性格が悪い、そうに違いない!」とか言っては世話ない。そんな陰気なアンタが性格悪いよ!

 

素朴な悩みがなにがおかしいか、煩悩の卑小さを持つ人だからこそ自分だ。

 


その点、太宰治は偉いし、坂口安吾も見習うべきだよ。現代の「弱い」ニート諸氏は。キリスト教ギリシャ哲学?上座部仏教マルクス主義アナーキズム? か弱い日本ニートには、すべてが手に余る品だ。

 

権力の意志、神経症的自尊心でしかない。

ニートをやりたいなら言い訳すんなって言いたいが、弱さを持つ人間には、言い訳が必要だ。

 

むしろニートは、ルサンチマンを弱さを開き直るか認めるべきではないか。もし、克服して、「超人」になった人がいたら、連絡ください。でも、神経症的な自尊心を盾にするより、まずは自分の性格の悪さと弱さに気づいたほうが懸命そうだ。