心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

2022-12-14から1日間の記事一覧

学問について 

ニーチェに惹かれるというのは、ひとえに「貴族的」ということだろう。そういう表現自体、文学に類する言い方になるが、そうは言っても、外的価値に委ねて自己救済しようする甘さ、すなわち「奴隷」が学問に溢れている。それは、悪戯に「色眼鏡」を増やすよ…

論理の錯誤 思想の矛盾

よく人を、「説得」しようとする人や、自分自身がいる。 いたずらに、ポジティヴでいようとか、考えないようにしようと、「排除的思考」になるのではなく、不快感をそのままでいようとして、認めることが先決だ。 排除的になると、ますます、反発によってそ…

「治る」意味 神経症の場合

治すとは、忘れてしまい、意識の集中が、不快な身体症状への一点から周縁になるわけで、「症状そのものがなくなる」というわけではない。とらわれが少なくなっただけでしかない。つまり、あるものはあるとして、過剰な執着や迷信がなくなる。それが「治る」…

性格というのは煩悩そのものである スマナサーラ

性格というものは、貪瞋痴という煩悩で形成されるのです。しかし普通の人間には、この三つの煩悩の理解も出来ないのです。単なる欲を向上心だと言ったり、あるいは実際は欲に走っている人を、たいへん明るくて活発な人だと言ったりする場合もあります。怒り…

苦や不浄を見破ることこそ「正見」である

余計なことをなにひとつやらないでも、太陽や星はかがやいている。 辺にいじるからおかしなことになる。 神経症は、流動的な、錯覚、夢、主観に近い。 心理的なものだ。 今まで、一切皆苦、無常が分からなかったが、いまは、分かるようだ。一切はただ苦であ…

体得するとはなにか

純主観とは、体得のことである。我々は、主観的に勝手に判断しているが、なにかに夢中なときは、それに成り切っている。それが会得であり体得である。 つまり、自己に対して批判や観察を離れた、動作そのものになりきる、ことである。 自分に良い意味で気づ…

再度 治すためではない神経症

治すための行動や、方法ではなく、症状があっても、目的をこなすのが正しい。 神経症の場合は、症状は、見せかけの仮性である。症状よりも、「意識しすぎる」のが、問題で、「症状を治すこと」ではない。ならば、どうするか。 結局は、神経症そのものに直面…