心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

苦や不浄を見破ることこそ「正見」である

余計なことをなにひとつやらないでも、太陽や星はかがやいている。

辺にいじるからおかしなことになる。

 

 

 

神経症は、流動的な、錯覚、夢、主観に近い。 心理的なものだ。

 


今まで、一切皆苦、無常が分からなかったが、いまは、分かるようだ。一切はただ苦であり、苦こそ、無常だと。

これは神経症に悩まされたから分かる。それらは、捉えどころがなくひたすら苦で、現れては消えていく。

 苦と無常…これは、神経症を観察して分かった。神経症は、逆に、この不快や苦を認められない。しかし、悟るとは、もはや「そうである」と言うことだ 自然や真理に服従することだ。すなわち、煩悩や不浄をきちんと見極めること。

人は、アッサリ、ニーチェや他の詩のように、英雄的に超越したり、克服はできないのだ。つまり、不浄や煩悩を「無かったことに」出来ない。

 



知識でなく、悪や煩悩を自覚すること。神経症を通して、これが分かった。

 

 

 

人格的に存在する概念は、ほとんどが流動的な活動を見せている。「かくあるべき」などない。性格とは実は、欲望があるからである。人は、本来、私も、性格もない。神経症的な人は、エゴや意識ばかりになって、理知に傾く。

 


世の中の人は、ほとんどが、人間性とは、ほど遠い変態や性癖の集まりでしかない。「性格」も煩悩である。

 


自分が感性豊か、繊細だとかんじているかもしれないがそれは違う。心理的欲求不満なのだ。

 


ありのままに生きられる人は少ない。

 


自分の感覚や人生を誤魔化して、変態に成り下がって、それが充実、苦悩だと勘違いしているが、実際は欲や感情、怒りなどの奴隷だ。

 


実際にはたんなる心的な欲望 煩悩を、たんに捻じ曲げて消費している。

だから、苦しいのは当たり前だろう。

 


変態を隠さない現代人は異常でもある。

 


神経症状態も、自分で自分に勝手に思って、苦悩する近現代人そのものだ。

ひたすら手淫を繰り返し、見えない悪魔を勝手に生み出し、欲望し勝手に苦しむ変態であり、豊かな人間性や暮らしとは程遠い。

 


これは、心の幻想で、これは、自分が楽しいだろう、満たされるだろうと言う心理的な欲求不満だ。だから、外見がおとなしく見えても、おとなしく真面目そうな我利我利亡者はたくさんいる。

 

以下、引用
[Sanyutta Nikāya, Bhikkhun] Sanyutta(S.1.196)]

生まれるのは苦である。 あるのも苦である。消えるのも苦である。

苦以外生まれるものはない。 苦以外消えるものもない。

 


一切は苦と明らかな 智慧もて悟るその時は
人苦しみに遠ざかり 清らかな道開けゆく

 

 


苦を認める 退けない この無常を生きる

 


苦:人生は苦しみですよね
集:苦しみの原因は執着なのです
滅:執着をなくせば、苦しみから脱することができますよ
道:その執着をなくす方法が、八正道なのです

 

苦を認める、無常を悟り、その執着に気づく 

 

以下は、引用 
正しく見るためには、「これこそだ」と何かの意見にとらわれないことと、固定概念を捨てることが大切です。その上で、客観的に見てみるのです。何を見るのかというと、まず自分を観察するのです。「生きるということはどういうことなのか」「自分とは何なのか」とまず理解する。そこから始まるのです。悟りへの道は、「悟るぞ」「煩悩をなくすぞ」と力むのではなく、「自分とは何なのか」と正直に見ることが第一歩なのです。たとえば怠けていたら、単純に、「あ、私に怠けがある」と見る。それだけでいいのです。「ああとんでもない、こんなことではダメだ、ダメだ」などと考えたり、妄想することはいりません。自分が怠け者であることを認めずに、どこかで「自分の嫌な面を消してやろう、消してやろう」と思ってしまう。それは逆効果なのです。怠けが出たら「怠け」、怒りが出たら「怒り」と、感情を置いておいて、ありのままに見るのです。そして、できるだけ細かいところまで観察するようにしていきます。それで初めて「なるほど、こんなものか」とわかってくるのです。「生きることはdukkha(ドゥッカ:苦)だよ」とわかるのです。よく見ると、「自分」は一瞬たりとも固定していない。安定していない。ものすごい速さで変化していく。「すべてはどんどん変化する、何にしがみついていても虚しい、結局はどうということはない、すべてはdukkha(苦)だ」とわかる。それが正見です。

アルボムッレスマナサーラ テーラワーダ