体得するとはなにか
純主観とは、体得のことである。我々は、主観的に勝手に判断しているが、なにかに夢中なときは、それに成り切っている。それが会得であり体得である。
つまり、自己に対して批判や観察を離れた、動作そのものになりきる、ことである。
自分に良い意味で気づかない状態だ。
我々の「主観的」とは、意識的な牢獄であり、「体得的なもの」ではない。それは、主観ではなく、迷妄である。
食べる時は食べる。眠る時は眠る。「挟む余地のない純度」が純主観である。忘我こそが、純主観である。◯◯した、とか、◯◯しようとしているときは、まだ主観的でしかない。
意識的なときは、なにも悟れないし会得はできない。自己が、そのものになりきったときに、「これを認識できない」ときが、体得である。仏とか忘我である。
自転車に乗れるまでは、意識的だが、乗れたら意識はしない。
しかし神経症的な人は、呼吸や動悸や心臓部の鼓動や、普通なことを過敏に反応する。
普通の人も、それらの生理的に無意識にやっていることを、変に意識したらツライしキモチワルイに決まっている。しかし、神経症的な人は、出来ているし、健康なのに、わざわざ意識して気にする。そういう「まったく無意味で主観的な悪趣味」に気づく必要がある。