心の書庫

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神経症は、「治す」ものなのか

当ブログでは、神経症は、無意識の意識化→自我の意識的強化から安定を図ろうとする理解と、時には、神経症を治さず生かすという方向性を見ています。森田療法フランクルのように、ありのままというやつです。あくまで医学的なアプローチの場合は、主訴を「治す」というウェイトがありますが、神経症はそれだけではありません。

神経症は、医学的に、QOLが下がる場合に、薬の投与を全面否定はしません。神経症には、一般的な行動認知療法の医学的関与による、条件づけを、書き換えて、治すものです。

 

しかし、なかなか治らない神経症には、生きがいや、実在や意味のある、無意識からの「ゆさぶり」がかけられている場合があり、それが、「心理学的なアプローチ」になります。そのとき、薬では治らない場合があり、そのことについて話します。

 

まず、神経症は治すものでは無いものもある(すべてではない)。他方、生活を送る上でたんに邪魔になるなら、表面的に治せれば良い。

 

しかし、神経症潜在的な、創造性を、生かすものがある。

神経症が、創造性にかかわる場合、そんな芽を「治す」と言う考え方は違うのだと言える。「芽」は、花開くものであり、「治す」ものではない。神経症は、そのような価値の創造にかかわると、ゲーリッヒは、ユングを通して提唱する。ある、神経症体験によって生かされて、それを生かす、内在的な治療理論こそ、必要なのだと思う。神経症による、自己のあらたな発展と、喪失がある。

 


だから、神経症を治さなくてはならないと考えるのではない。こういう時、神経症において、自分はいかに生きるか、生きたか、生きたいのか、である。そのことによって「神経」は発展する。

 

神経症を「神の意志」としての経絡という仮説をたてる。しかし、神という概念を、大胆に取り入れるのは、スピリチュアルで、漠然とした、おかしな方向にゆきかねない。

 

ある一つの「視座」として、心理学的な見立てを必要する場合がある。これはあくまで、現代精神医学という基盤を基に語られるものであり、それ自体を根本から見直すものではない。

 

しかし、曖昧な「心」を語る上で、ゲーリッヒなどが唱えた、神経症の創造性、心因性節は、きちんと考えた方が良い。治すのが科学的にアプローチするほど、おかしな方向にゆく神経症もある。それは、むしろ、神経症を強めてしまう。意識する対象を、人は、より強固にするからだ。だから、神経症は、基本的に気にしない。

 


それを踏まえて、たとえば、神経症神の意志を「治す」のはおかしいだろう。

神の意志を生かされる客体でありながら、神となにかを生み出す主体であるのが、人だと考える。これは、取り立てておかしな概念ではなく、哲学や神学のテーマである。神は実在するかしないかはさて置き、少なくとも人知を超えた「なにか」は、想定するのも、充分「科学」である。しかし、幽霊の仕業だとか、短絡的な「筋書き」を肯定するわけではない。

 


とは言え、人生は、神との共同作業であって、たんに、受動的な宿命と必然の人生ではない。たまたまそうだったから、そうでしかないわけではない。

 人は万能ではないが、関与できるし、行動はできる。

だから、フランクル神経症を宗教に関係する、「意味創造」と言った。神経症にも、この創造性の萌芽がある、というのが、ヒントだ。人には、人生、自己を「つくる」仕組みがある。それを経てこそ、人は、発展する。だから、他方「神経症」に生かされて、成長する可能性もあるのだ。