閑話休題
いつも、森田正馬ばかり引用しているが、たまには、自分で。
当たり前だが、流れが悪いのは、流せないからである、ということが、わからない場合がある。流れが良いのは、悪いことを気にしないで、良いことばかりに意識が向いているからでしかない。悪いといえば、悪いことだけの世の中は、明日にでも地球や生命が滅ぶ理由にもなってしまう。
生きていれば、嫌なことがある。不快なことがある。体調が悪くなる。石に躓いたり、嫌なことを言われたり。
わかりやすく言うと、避けようがないことを、神経症は執着したり、強迫神経症者は、打ち消そうとする。
要は、流してしまえばよいのに、いつまで訂正したり、打ち消したりしたくなる。
神経症者や強迫神経症者は、流してしまえば問題はないことまで、流してしまえない。悪く言うと、いつまで、トイレを流さないで閉じこもっているようだ…
普通なら、流して、トイレなどさっさと忘れてしまうはずだ。それでよい。不快な生理を感じトイレにいく。しかし、神経症者や強迫神経症は、そういう生理や性を認められない場合がある。必要がないのに、わざわざ記憶や嫌なことや、発言を引っ張り出して、トイレに閉じこもって、汚いことに必死に縋り付いているイメージだ…あまりに不健全ではないだろうか。しかも、それ自体、まったく意味がなく生産性もなく、ひたすら自分が主観的に気分悪くなるだけである。神経質とは、病気のようになるが、変な性癖に似ている。流せば良いことや、楽しめることや、やることに意識しない。
生きていれば、結局は、問題は避けられないし、解決できないこともある。人は、悪も汚れも変態性癖もある。仕方ない。
「解決グセ」や、「打ち消しグセ」にこだわるのが、神経症や強迫神経症者だが、実際には、健常者と何ら変わらないのに、異常だと過剰反応して、排除したがるクセがあるだけだ。
流れが悪いのは、いつまでも「どうにかしよう」としているからで、命に別状がなければ、まあ、流してしまおう。悪いこと、不快は認めて、長そうと、大きな川が、海になるイメージを持つと良いかもしれない。
良いも悪いも無かったことにもできないし、綺麗すぎる水では魚は生きれない。人間も同じだ。