心の書庫

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神経症発作や軽度のチック、どもり、喉の支えなどは、誰でもなる

 

とにかく、病気と思い込んでいる人が、たくさんいるが、偏りや多寡の問題であって、重傷者は、それが、激しく、ひっきりなしに、「普通の人」より、回数が多くて、「振れ幅」が大きいに過ぎない。

 

神経症発作や、発達障害やチックなど、強迫観念など、実は、健常者も大なり小なり、ある。

 

しかし、とくにヒポコンドリー性の神経症者は、「異常」「これは普通ではない」「自分が弱いから隠さないといけない」とする。あげく、異常だから、自分は病院に入院すべきだとか、ひっきりなしに病気ではないか、と気にしたりする。

 

とは言え、緊張、不安、吐き気、めまい、頭重、下痢、ふらつき、息しづらい、軽い発達障害や偏りや、軽度のチックのような「クセ」、喉の支え、せき、さまざまな症状は、普通の人も実はなる。一時的に、なる。

 

神経症者は、これをまるで「顕微鏡」のように見て、「巨大化したミジンコ」に、恐れているのに近い。しかも、それが、まるで夢の中の悪夢のように、勝手に浮かび上がってきて、勝手に苦しむことになる。しかし、顕微鏡で、周りや人を見たら、びっくりするのは当たり前でもある。

 

神経症は結論からすると、簡単になってしまうし、逆に簡単に治る。「絶対に治らない」と思い込んで、ますます、病気を意識して栄養を与えている様は、毎日、毒キノコに水をやるような行為だ。意味がある場合もあるだろうが、まさに、無意味な場合もある。

 

ちなみに、神経症にしても、無意味な場合と、もっと深い心理的な意義を持つものもあるが、約8割型は、何の意味すらない、「とらわれ」であるとされている。

 

現代では神経症の定義は揺れているが、典型的なわかりやすい森田正馬の本で出てくるような患者は、彼の本を読んで、さっさと、自分の神経質や弱さを認めて、なにも考えず、飯を食って寝た方が賢明である。これは笑い話ではなく、マジである。自分が、病院に行ってなにも問題がないのに騒ぐのは、「変態」であり、神経症は、ある意味では、変である。自分が変態になるのは、親や周りの責任ではない。あくまでキッカケでしかない。

 

本気で治すつもりがあるなら、病院で一度検査をしてから、さっさと寝て、やるべきことに、「弱いままで」やれば、気づいたら治っていた、てのはある。自分もそうだった。治ってなくとも、気にしなくなるし、どうでもよくなる。実際のところ、周りにとっても、自分にとっても、くだらないコトを苦しんでいるな、と振り返って感じる。私も、周りの話や「不吉な」ものを見て勝手に寝込んだり、体調が悪くなった経験があるが、それが、「繊細」か「馬鹿」なのか、紙一重である。いま振り返ると、多分、いや、やはり馬鹿なんだろう。

 

難しいことなど一切ない。病気に栄養を与えている自分の滑稽さ、メカニズムに気づいたら、さっさと諦めて、忘れる、気にしないのが薬である。極論言えば、関与しない、なにもしない、なんてラク珍なことだろうか!

 

人は「思想の矛盾」をしている。高い山や赤ちゃんやありとあらゆる惑星は、べつに「深いこと」は考えていない。成長は勝手にするものだが、「大人」やとくに現代人は、「考えクセ」がある。しかし、生きるも死ぬも成長も、なにかやるほど狂い始める。とくに神経症はそうだ。神経症者は、やる必要がまったくないことを意識している。なにに意識を向けるか、癖を治すのはあまりに簡単だと思う。つまり、諦めてこだわらない、自然にまかす。勝手に治る。ただそれだけだ。仮に治らなくても、気にしなくなればokだ。