心の書庫

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主観に閉じ込められた神経症症状 森田正馬

神経質の症状は、この執着がいつまでもとれないものと解釈すればわかりやすい。
強迫観念についても、はじめは、常人にも当然あり得るような現象を、患者が自分で異常病的の苦痛と考え、恐怖を起こし、予期感動をともなうことから、精神交互作用によって、次第にその症状を
増悪させるものである。たとえば儀式のときに、偶然恥ずかしい目に会って顔が赤くなるのを感じたとか、赤痢の患者を看護して、バイ菌を恐れたとか、鉄砲を手入れするときに、フト誤って発砲し、
人を怪我させることがありはせぬかと思い浮かんだとかいうことから、これが動機になって、患者は常にこれに注意を傾注するようになる。その後は、日常これに関係したこまかなことにも予期恐怖を
おこし、苦痛をともない、この注意と苦痛と、交互にますます過敏となって、ついに赤面恐怖、バイ菌恐怖、兇器恐怖などの強迫観念を起こすようになるものである。


さて、このように、すでにその執着にとらわれて、一定の症状を構成するようになってしまえば、患者は常にその自覚に執着し、主観の内に閉じこめられて、たとえば「鹿を追う猟師は山を見ず」と
いうように、常に注意はそのことにのみかぎられて、他のことは見えない。

 

また野村隈畔という人が情死の前に、「永遠の世界に憧れているものの心が、世間の者にわかるものか」とかいったのは、自分の身体は、針で突いても痛いが、人の身体は、ヤリで突いても少しも痛みを感じないというのと同じく、単に自分の自覚だけにとらわれて、他のものを推測する余地のないものである。

 

他の人も、自分と同じ境涯にあるときは、自分と同じ悩みを起こすものである、ということを知らない。神経質患
者が、常に「自分のような苦痛、煩悶のあるものは、世の中に類がないだろう」と信じているのは、
明らかにこの特徴を発揮したものである。
患者は、自己の執着を離れて、他と自己とを正しく比較することができず、人に対して同情することができず、ちょうど飢えたときに他人に食物を与えることができないように、自己の恐怖、苦悩の
ためには、まったく他をかえりみる余地がないのである。したがって患者は、自己中心的となり、常に人をうらやんでは、憂うつとなり、他人の同情を求めては、刺げき性、短気となり、ついに周囲と融和することができないようになる。

このような神経質の憂うつとか、刺げきとかいうことは、みんな自己批判の錯誤から起こる二次的のものであって、特発性のものではない。たとえば、体質性抑
うつ(憂うつ性性格)の患者は、その素質による特発性の抑うつ性気分がもとで、次に二次的にこれに相当する悲観的思想を誘導し、構成するようになる。しかし神経質は、その悲観的思想がもとで、
その結果として、二次的に抑うつとなるものである。


また神経質者は、意志薄弱者や、興奮性痴愚者のように、特発的に刺げき性となるのではない。 神経質者は、まれには暴行することもあるが、けっして意志薄弱性素質の衝動性性格者のように衝動的
に起こるものではない。必ずその間に相当の思慮分別があって、方便のためにするとか、一定の理論
の結果からやるものである。もしそうでない時には、それは他の異常人格の合併したものであって、純粋の神経質者ではない。


また神経質の厭人症で、人を避け、独居を好む、とかいうことも、すべて続発性、すなわち二次的に、自己の病気に対する影響を恐れ、病気がそのためにますます増悪するのではないか、という心配
の結果として起こるものである。また多くの学者の認めている神経質の意志薄弱ということも、自己の仮想的の病気にこだわり、恐怖する結果としてくる続発的のものである。本来、絶対的にその意志
力あるいは意志発動能力の減弱したものではない。仮性、すなわち似て非なる意志薄弱である。これらの関係は、診断上、常に顧慮しなければならぬもっとも大切な条件である。

 

感想

 

神経症を自ら生み出し、誰よりも自分が辛いと主観的に閉ざされた状態を森田は指摘している。神経症症状は、実は健康人にもありえるが、神経症者は、自分中心に身勝手に、不快な感覚を排除しようとしすぎて、ますます増悪し、周りを僻んだり憎んだり自己否定をする。人を避けるようになる。仮の憂鬱や症状に非活動的になっているだけである。なにより、程度の差はあったとしても、みな神経症的な感覚は誰でもあり、みな苦しんでいる、ということ、異常ではないこと、自分が勝手にエスカレートして、主観の感覚の暴走(精神交互作用)をしているのに気づくこと。自分の弱さや癖を自分で演出していないか、ということ。自分ほど苦痛している人はいない、と身勝手にならず、偏りはあっても、みな大体、同じという感覚や同情心が芽生えるかが鍵になる。