心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

神経症は、「意識する病」である 森田正馬


注意の執着
神経質患者が、夢が多いといったり、一定の強迫観念が絶えず念頭に現われるというのは、単に注意の執着による意識の関係から説明することができる。
私たちは、こまかく自己観察をすれば、眠りからさめるときには、ほとんど必ず夢を見ていることを知ることができるけれども、普通の人はこれを意識し、記銘することがごくまれである。それ故常人が、夢を見ないといっても、実は夢がないのではない。ただこれを記銘しないというまでのことである。それは普通の人は、さめれば、すぐに日常生活の刺げきに追われ、意識は転々流動して、夢の中に見たようなことは、現在の境遇とまったく関係のない縁遠いことであるから、すぐわすれて、意識にとどまらないためである。だからこのような人でも注意して自己観察のけいこをさせれば、いままで夢がないといっていたものも、常に夢みるものであるということを知るようになる。神経質患者は、不眠を恐れるため、夢を熟睡のできなかった証拠として、常に注意がそのことにそそがれるため夢が多いと感ずるのである。だから患者が治癒し、もう不眠を恐れず、夢などに無頓着になったあとでは、常人と同じく、夢を見たのか見ないのか、気がつかないようになる。
強迫観念も、まったくこれと同じで、不潔なり赤面なり、これと同様の感想は、普通の人でも同じく出没しているけれども、常人は日常生活における精神流転中にすぐ忘れ、またはまったく意識するかしないで、新しい刺げきの方に意識が変転してゆくから、これに懸念している暇がないのである。
八卦や運勢やその他迷信の当る当らないは、これを信ずれば、注意がそのことにのみそそがれるために当り、信じないものは、広く比較考察ができるから当らないのである。
以上述べたように、神経質の症状は、ある動機からある事実に対して、注意集注により、自己暗示的に執着した信念的なものであって、単に患者がみずからこれを病的と固執する主観的のものであるということができるのである。

 

感想

 

このことから分かるように、神経症者は、実は「普通の人が普通に感じていること」に、意識を向けたり、強迫神経症者も、「それはいけない」と思い込んでいるが、実は常人も大なり小なり同じで、執着せずに、流して気にしてないだけである。つまり、意識的かつ主観的かつ執着心がある。