心の書庫

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神経症が出るタイミング

神経症が、とくに強くなったり、出たりするタイミングというのがあるが、これは、私個人から言わせれば、「人生に何らかの意味があるタイミング」ということになる。とは言え、すべてが意味があるわけではないです。

 

かたや、たんに、意味がない反射に固定されて、ひたすら症状を無意味に反復するようなパブロフの犬状態にいる人もいるが、それはたんに条件反射の誤作動にすぎない。無意味なクセです。

 

とは言え、神経症にはそれなりの意味があると理解するのは、コンプレックスとの関係から考えると理解できる。ユング心理学では、自我のさらなる発展や、高次の再統合のために、一時的に不安定になるのも神経症の側面と認める。アドラーフロイトには、そういう側面は感じない。

フランクルなら実存的な「生きる意味」を語るが、神経症は、ユングには、さらなる発展に関係するという。

 

たしかに、私が、赤面症恐怖の時、思春期で、外見にこだわる人だった。すなわち外見コンプレックスに同一化し、さらには醜形恐怖になった。いまは、治ったのは、自我が、外見コンプレックスを認めて、克服したからと心理学的には理解できる。自我は、そうやって高次の自己実現をしたがるのだ。外見にこだわらなくても、自分は自分でいて良いと気づく成長を経験したからだ。

 

神経症にはタイミングがある。それは、緊張や不安のあるタイミングで、自我がさらなる高みを追求するタイミングだ。そうやって人は、成長するし、無意識はしたがるのだ。性的な欲求不満だけでなく、神経症は、さらなる心的欲求不満が募ると、神経症が出てくる。出ている間は、人生の「節目」にあり、なにか、「新しい自分」が可能性を感じ始めた時で、コンプレックスが騒ぎ出した時だ。

 

コンプレックスは、劣等感だけではなく、補償作用として、「新しい自分」になって欲しいサインと有り難く受け取る必要がある。人目が気にして、神経症を患う人は、「人目を気にしないで自分を生きる」課題がある。人目ばかり気にして、やりたいことを無意識は、やって欲しいが、自我が「退行したい」と、成長しないで、元に戻りたい、楽したくなる。人目を気にしないで自分を生きることが成長には必要になる場合がある。それはとくに思春期や社会人になったり、新しい活動をするときである。

 

心的欲求不満になりやすい人は、宗教にもハマりやすい。「より良い自分」になりたいのは、結構だが、なんでもなれるわけではない。タイミングや根気も必要になる。金も人間関係もなしに、いきなり家から飛び出す人がいたら、それは、ホームレスである。だから、現実創造には、根気や努力が必要だ。

 

無意識が、可能性を高めるとき、神経症は節目に現れるときもあると理解しよう。なにも悪いことばかりではない。意味が劣等感だけの卑しいものもあるが、人によれば、成りたいと願う、自我の発展の要請である。逆に言えば、なれもしないものを願いすぎている可能性もある。自己内対話を深める必要がある。成りたい自己を認めるのも、成れない理想や夢を描いて自分を責めている可能性もあるのだ。成れない自分を認めるのも、成れるかもしれないから待つかは自分の対話次第だ。

 

自己のさらなる発展に、高次の意味や自己実現が潜んでいる場合は、そのメッセージをいかに受け取るかが、鍵になるだろう。