心の書庫

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再度 治すためではない神経症

治すための行動や、方法ではなく、症状があっても、目的をこなすのが正しい。

神経症の場合は、症状は、見せかけの仮性である。症状よりも、「意識しすぎる」のが、問題で、「症状を治すこと」ではない。ならば、どうするか。

 

 結局は、神経症そのものに直面していくやり方が必要になる。

意識を逸らそうとしたり、忘れようとする作意を生み出しし、症状に反発するほどに強まる。

神経症の人は、むしろ、症状自体になって、我慢して、苦しみ耐え忍びゆく。むしろ「それ自体」に直面して、なりきる。

困難の中にいて、困難を同時に意識しなくなるように必死になる。

 強迫も神経症も、反発のエネルギーが強い。だから、治そうとして意識しない努力ではなく、むしろ、そうなろうとする。逆説である。V.フランクルも、森田正馬も同じやり方である。反発や回避は、むしろ病態を強める。症状があってもやるのが正解。神経症的な人は、必ず「静養」したがる。神経症は、静養しても治らない。回避的行動でますます強まる。神経症の原因はストレスや刺激ではなく、「きっかけ」でしかない。むしろ、神経症の状態になってしまうことで、「神経症そのものになる」。台風の目の中にいれば、晴れであるが、客観化した途端に嵐になる。神経症はだから、恐怖から避けようとして、嵐に煽られる。むしろ突入すれば、内部は、なにもないことに気づく。そのうち台風になりきる。台風を対象化する人は、台風を恐れるが、「台風そのもの内部から成り切っている場合」意識も反発もない。気づけば、まるで、いつのまにか台風は消えてしまうイメージだ。

 

症状を積極的に出し切る努力をする。治すための意識的努力は逆効果。

どんなに良いことも悪いことも「出し切ったらもう出ない」。汗や涙や排泄もで切ったら一切出せないのだから、神経症も積極的に直面する。トイレに行きたい人が、怖くて行けないなら、漏らすか苦しいだけだ。「トイレに直面して行く」から、あとは、出し切ったらなんてことはない。

ただ恐ろしいままに不安なままにやってみること。気分や雑念はあってもよいのだ。

 

いたずらにその場逃れの忘れている、不安や恐怖を起こさないようにしようではない。雑念、不安、恐怖を、あるがまま、直面しなさいという。

その場合は、気分や体調を優先するのではなく、ひたすら、やるべきことやりなさいと言うこと。

病気そのものより、「感覚過敏」なのだ。誰もが、多少は神経症的な特質はある、「神経症は、感覚の異常であり過敏」だ。それ自体を生きて見せるよう努める。

 

 

 

症状を治すために休んだりしない。直面して恐怖と不安に突入して消す。回避して消すのではない。大袈裟に言うと、死を覚悟する。弱いまま、怖いままでいく。けして、強ぶらない。小心のまま、そのまま行く。なにかをやりきる。「治すための行動」をするくらいなら、むしろ、なにもしない。

 

方法論や、考え方にこだわるより

目的意識を持つ。勉強や家事や育児や仕事を優先する。いちいち自分の体調や気分を優先しない。それを観察もしないし、口外しない。

なにをすべきかを優先する。

気分や体調を主人公にしない。

だから神経症だから「静養」したりするような、

「治す方法」は矛盾する。

そのままやって、気づいたら忘れているのが、即自的生き方。

 

不安とは逃げて解消はしない。

不安や恐怖に直面するから消えるのである。