心の書庫

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神経症者は「すなお」では無くなってゆく

森田正馬は、「すなおさ」を推奨している。

 

世の中にいじけて、ことあるごとに、遺憾の意を示したがり、お気持ちや、白けて見せたり、密かに自分は優れているという「気持ち」本意の意見が目立つ。

 

神経症者は、「お気持ち」いかに自分が周りの世界に遺憾でいるか、不快であるか、気持ちの優位を示したがる。ブログやTwitterを開けば、いかにお気持ちを周りに分からせるかを四苦八苦している。自己中心的である。

 

たとえば、いまなら、サッカーやクリスマスや正月などだが、いちいち気持ちで、白けて見せたり、素直に楽しんだりはしない。尊敬したりしないで、ひたすら、否定してみせて、自分は、気分的に勝ち誇って見せる…。いかに楽しんだかではなく、気分が良ければ身勝手に好きなことは言って、自分が気に食わないのなら、夏休み、ハロウィン、クリスマスやバレンタインやサッカーなどは、自分が楽しめないから、いかに、おまえら世間は間違っているのか、いかに、自分が遺憾であるか、白けて、自分はまともな人かを表面したがる。もし、ブッダがいたら、仮にも、祭りで踊って、夢中になって周りを楽しませて、周りも祭りを盛り上げて、自分も楽しい人がいたら否定するわけはない。むしろ、そういう人を馬鹿にして見下しているような人をブッダは叱責したに違いない。我々は、楽しむ素直な「こころ」までは馬鹿に出来ない。しかし、世間の催し物を、神経症者は楽しむつもりはない。いじけていたいからである。

 

つまり素直さがない。自分に家族や友人がいれば、その時は楽しむくせに、自分にはないから、周りに、しらけたふりをして見せるが、いつまでも自己中心的でいかに周りに白けているかを知らないかぎり、人間関係など充実するわけはなく、素直さがないから、孤立する。それがなにが悪いんだ! と逆上する場合がある。

 

ひそかに、どこかに、自尊心があり、そういった「世の中に楽しんでいる人たち」を、僻みぽくなるのが、神経症的特質でもある。

 

すなわち、「すなおさ」が全くなく、知識や気分本位で、理知的な真面目な意見や、気分で、周りの人を堂々と否定して憚らない。他方、そうやって世の中に騒いでいる人を見下して見せる。「気分」や「理知」を上にして、「すなおな心」を失っている。

 

バレンタインやスポーツやクリスマス、ゲームや「夢中になっている人」が、神経症者は、白けて見せたり、「感情的に勝って見せたり」、自分の気持ちをあくまで優先して、神経症的な反応で、素直さを失って、理知や気分に傾いてしまっている。

 

医師や模範になる人や偉い人まで、いうことをきかなくなり、迷信や盲信や占いや、ありもしないこだわりや、独自の我流に陥って、ますます周りと協調を失うが、あくまで、ひっそり、周りより、自分は「まともな感覚」であるという自尊心を保とうとする。

 

世間をバカにし、みならうべき人を見習わず、良くなるための方策を無視し、「自分の主観的感覚」を優先し、体調不良らストレスや不快感を優先するようになる。すなおさを失って、ひたすら神経症に宿主を交代し、まさに寄生虫に全てを預けたような人になる。神経症者は、「周りを利用」しがちになる。

 

恋愛や勉強やスポーツやグルメやレジャーなど「すなお」に楽しめず、「ひねくれ」る性質があり、自分より豊かな人や、権利を主張するようになり、ますます無意味な身体不調、不快感や強迫に縋りつき、また他人を見下すようになる。

 

現実にコミットできない、強迫神経症者や神経症者は、このような悪性の自己中心性や自尊心を抱いている人をしばしば見受ける。話を聞いてみれば、結局は、自分ではなく、周りが悪人だと考えている場合が非常に多い。自分は人一倍苦労し、周りより気分本位や、妄想や迷信で、優れたつもりになっているが、実際のところは、たんに自分で生きるのをやめて、ひたすら病気や不快にこだわる変態的でつまらない人生を送っている自己中心的な自分には、いつまでも気づく事はなく、現実に「なりきる」ことができる常人をバカにする。

 

自分が自分で苦しんで、自分が楽しいときだけは楽しいと言い、自分がなされるがままに、楽しめなくなったら、世間や周りを否定する人が「すなお」で良い人かは、疑問に思う。素直ではなく、オモチャを与えられたら喜び、買ってもらえないとわかれば泣くわがままである。大人なら、手に入れられない不快な感覚を、周りにも事情があり、みながみな自分のためになるわけはない、と言う「事実」を理解できる。

 

自分が身勝手に神経症不安や強迫に、不愉快を感じているのと同じくらいに、世の中には、相対的に世の中で楽しんだり笑ったり必死に生きている人もいるのが神経症者は分からない。「自分が不愉快な気持ち」が一番だからだ。それを邪魔したり、いちいち意を唱える資格があると思っている。楽しんでいる人や現実を生きている人にわざわざ遺憾や不快を示すこと。それは、たんに身勝手で、自由ではない。権利でもなんでもない。わがままで幼稚な自己愛でしかない。いちいち、ブログやTwitterで、世の中に挑戦して見せることの中身のない病的、変態的な特質やこだわりでしかない。すなわち神経症的反応である。親族に感謝さえ忘れ、病気自慢や苦悩で、言い訳するようになったら、末期である。

 

いちいち、世の中や他人に、自分の気持ちをぶつけることを優先する人がいたら、それは幼稚な証である。素直さがなくなり、いちいち揚げ足取りや皮肉が止まなくなる。

 

大人は、気持ちを踏まえた上で、どうしたら、人につたわるか、周りを考えた上で、尊重できる。不快感は外には出さないし、自分語りはなるべく控えるのが分からない。現代人は、いかに「自分が不愉快か」を示したがる。それは、偉くもなんともない、悪性神経症であり、ヒトラーと同じである。「不快感な連帯感」を、深めて、全体性に埋没する。

 

自分が不愉快である、と唱えたところで、周りが不愉快であることがわからない。うさぎを好きな人の前で、わざわざうさぎがいかに嫌いかを気分や気持ちで、頭ごなしに言う必要はない。ただ、それだけのことがわからない。

 

事実本位とは、自分が不愉快に感じることと同じくらいに、周りも幸せや楽しみを感じる生きてる人がいることをきちんと認めることだが、神経症者は悔しくて仕方がなく、知性的な防衛機序が働くようになる。それは世の中では、「インテリ」と呼ばれているが、ほとんどが、ひねくれた性悪に成り下がっていないだろうか。理知や気分に「のっとられて」まっすぐに生きられなくなったのである。

 

常人は、自分が良くなるため、人がよくなるため、世の中が良くなるために生きているのを理解できない。神経症者は気分と体調と不快感と不幸の「虜」になっている。それは、周りの人より、優れた証ではなく、たんに独りよがりな変態である。あげく貧乏や不健全や不健康や友達がいないこと自慢する。あの独裁者ムッソリーニも、友達がいないことを、ひけらかしていた。

 

神経症者は、このように、いかにふざけたヒトラームッソリーニのような独裁者的な素質があるかを、今一度、気づいたほうがよい。