心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

人の気持ちが分かるだろうか

心理学者、河合隼雄は、人の心など分かりはしないと逆説を言っている。

 


そもそも人の心などありはしないし、分かりはしないのだ。あるとしても、それは、煩悩、業である。心はフィルターである。

 


真理は、因果法則、業だけだからだ。

だから、感情や欲求や上辺などは、見せかけに過ぎないのだが、神経症の特徴もまた、仮性のものだと森田は説明している。精神分析的にも、かくされた本当の欲求は別にあることになる。本当の欲求とは、煩悩である。業である。しかし、病者は気づかない。無知、無明に陥り、真理に暗い。

 


よく人の気持ちがわかる、などというが、そんなことはあるだろうか。

 


たとえば、周りが怒っていたら、うん、その怒りはわかる、などはない。まったく周りの感情に完全にシンクロしていたら人類は大変なことになるが、実際のところ、「人の気持ちがわかる」という錯覚しかない 無常を、ありもしないものをあると見ている。仏教的には、泣くも怒るも欲、執着だからだ。

 


そもそも本人が怒りに反応したことと、自分が怒りを感じたことには、ズレがあるし、同じはずがないが、気持ちがわかるというが、結局、神経症的な反応は、「周りを材料」にして、自分の業を叶えようとする。

 


しかも、それは、表面上、「怒っている」だけで 人の気持ちはわからないし、自分の気持ちも、捉えどころがないはずだが、無常、無感覚に近く、感情や体は目まぐるしく動いている。「ずっと同じ」とか「在る」ことはない。

 

不安や怒りや恐怖の見せかけにすぐ騙される。「在る」と思うからだ。

神経症的な反応の人は、実際、かなり騙されやすいし、思い込みが激しく、それくらい森田正馬が言うような「生の欲望」が強く、同時に不安が強いことになる。まさに、それは、業で簡単に説明がつく。欲張りが苦悩するのは当然といえよう。

 


エゴはあたかも、「ある 」かのように現象的に見せかけてくる。そもそも怒りの背後には複雑な感情、境遇、事実、妄想、機微があり、本人も、それを見たくらいで分かるはずもない。周りに悪や怒りがある、敵意があるというが、業は自分の中にある。薄汚れた心のフィルターで世を見れば無知であり、世界は汚しく「見える」が、実際は、無常である。よく、釈迦は、それでも世界は美しいと言ったなどというエピソードが語られるが、それはおそらく嘘である。世は美しいか汚いか、ではなく、心がそう見せているから、世は無常である。しかし、我々は、勝手に美しい、汚い、怒り、嫌だ、なんだと判断する。

 


自分で生み出した業。

それこそに、「とらわれ」「はからう」。しかし、その悪業を生み出したのは、種を蒔いたのは、世や人を裁いたのは、エゴである。

 


周りが騒いでいようが、怒っていようが、実は自分の心の原因、因果が分かったいれば、だいたいは、stopはかけられる。だから、また、エゴが暴れているな、と観察する。

 


周りに影響されてなどはありえない。自分の業を生み出して、とらわれ、それをどうにしか計らうことなど、おかしな話だ。その悪業、無知、煩悩的、欲求は、基本的に自分の中にしかない。周りの責任にできない。

 


たとえば、周りは窃盗をしているから自分もやったなんていうが、周りは関係はない。

心的欲求の業は基本的には自分にしかないからだ。

周りが騒いで怒っていようが、盗んでいようが、やらない人はやらないからだ。

 


冷静に分析している人や、煩悩、業に気づいている人は、とらわれないし、万が一邪な感情を抱いても、流すことはできる。つまり、「気づき」である。周りが怒っているかのように勝手に判断して、勝手に、人の気持ちがわかり、怒るのは、怒りの原因や業が、自分の中にあるからでしかない。

 


普通、本当に「心」があるなら、気持ちがわかるとか怒る前に、「どうしたのですか?」と歩み寄るほうが、心あるのではないか。

 


まるで、水の上辺だけを見て、海面の下には新種のとてつもない巨大魚がいる、と錯覚したり、見せかけの幽霊が脅威であるかのように映るが、それも、欲求不満である。欲望まみれの奴隷が不安で仕方ないし敵意や攻撃性や周りに認められたり自分の生存欲望があまりに強いのだ。世の中は、たんに人の薄汚れた心のフィルター、煩悩でしかない。「人の気持ち」などではない。

 

 

自分が見せた主観的幻覚や身体感覚を鋭敏にして、自業自得に陥っていると言えるだろう。ないものを勝手にあると言うクセがある。

「自分に酔っている」と言ったらそれまでだが、残念ながらそうである。