心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

人のやってることの「深い意味」などない

 

基本的に、神経症であれ、他の精神病であれ、なにか裏や意味があるのではないか、と思い込み、さらには、その妄想が確信に至る場合がある。

 

とは言え、人のやってることは、基本的に心情の色付けされた浮世の夢、妄想、思い込み、煩悩、人それぞれの業であり、「深い意味」とかはない。たんに、身勝手な判断の連想である。

 

むしろ薄っぺらい欲望的な言動ばかりで、真理からはほど遠い。

 

真理とは、ただ、存在の「きざし」があって、それはひたすら無常で、常不成ということだけだ。

 

すなわち、人は、たんに死に向かって、ぐるぐる定まることなく、流れ、ひたすら動いていると言うだけだ。人は、「全体」の「流れ」であって、我々といったり、私とか自分とは、次の瞬間には消えゆく気泡のようなものだ。無いものをひたすら有るとするのは「科学的」とは言えない。

 

だから、認識や意識は、基本的に心情に色付けされた「現象」である。しかもそれは、次の瞬間には、夢のように移ろう。

 

人は、好き勝手、なにか高尚な、深い意味などを語りたがるが、そのほとんどが、たんなるエゴイズムでしかない。

 

よほどの賢人や一部の宗教者ではない限り、我々の浮世は、実に欲望塗れでいるか。

 

心身の健康とは、仏教で、あらゆることが、心に基づく、というように、心が決める。

 

しかし、大半の人は、その業がわからない。

 

ひたすら「頭脳」や「エゴイズム」を掻き回して生きているが、「深い意味」などない。

 

むしろ、人生を無価値に無意味に、死を否定するために、無意味的行為を繰り返しているだけだ。神経症や強迫観念の人も、ただ悪戯に死を否定し、目の前のちゃちな生存欲に縋っている。

 

残念ながら人は死は避けられないし、主観や心は、妄想と欲望の「夢の世界」に生きている。人が、夜見る夢を基本的に、夢を見ていると気づかないのと同じくらいに悪夢を現実と捉えている。

 

フロイトは、夢を願望充足といったが、心理的に拗れている人は、多夢の傾向があり、夢見も悪い。

 

人は、主観的、感情的なことを良いとするが、そんなものは、迷妄を正当化している以外に意味はない。

 

人のやってることが、基本的にいかに、無意味か、分かるだろう。強迫観念や神経症も、同じことだと言える。

 

世の真理とは、無に近いもので、人が所有物のように、意味を振り翳せるわけではない。それは、オカルトではなく、残念ながら真理である。だから、ありとあらゆるカルトやスピリチュアルは、たんに、妄想や思い込みを強めて悪戯に意識を強めることになる。これを、我々は精神的だと勘違いしているが、私利私欲の迷妄に他ならない。

 

世の中の慣習や消費社会や教育は、もっと「思い込みを強めろ」ということを言っている。欲望と夢の中を生きろ、妄想を現実化しろ、と言っている。親や社会の思い込みを強めるために生きていれば、自分が病気という思い込みも生まれる。逆に自分を正常人だと過信するのも、無知である。ようは、たんに真理が分からなくなり、来世も気づくまでは、いつまでたっても、ぐるぐる同じカルマを背負うことになる、ということだと思う。