心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

解決型思考、問題発見思考

神経症の人の気持ちには、問題をわざわざ作ったり、見つけたりして、「解決」しなくてはならない、というこだわりがある。

 

森田正馬が言ったありのままとは、神経質な人には、わかりづらい。

 

ある意味で、ありのままとは、「問題があって基より」というスタイルだ。

森田正馬は、不安定に安定する、という逆説を言っている。

 

目的論的には、神経症の人は、問題や障害をわざわざつくったり、「それがあるからできない」とか、「それが解決したらできる」と思っている。

 

つまり、問題と解決にフォーカスして、やらない、やれない理由を探している。

 

「決死」とは、神経症とは真逆で、余命が宣告されても、やるべきことに向き合って生き抜く態度であって、それがあるからなにもしない、というわけではない。

 

どんなに自分に落ち度がなく、周りが悪くても、それが理由になったら、結局は、人はなにやらなくなるし、安きに流れてしまう。

 

あまつさえヒポコンドリー性基調のために、主観的な神経症症状が出やすい人は、「ほんとうに症状がある」かのように思い込み、さらに病気でもないのに、重病に犯されたように錯覚する。

 

仏教では、カルマと言ったが、神経症にも、必ず心理的欲求、観念があり、それは、周りのせいではなく、あくまで「自己演出」であり、人工物、偽物、仮のものである。

 

主観的に、観念的に良いやすい体質があるために、それに気をつけておいた方が良いだろう。神経症とは、あくまで、周りの状況は、たんに、「きっかけ」であり、神経症の「原因」は、残念ながら、自分の中にしかないのだから。(もちろん、体質など諸説はあるが、心理的動機は本人の中にしかない)

 

頭や気持ちで、「自然」や道理を、力づくでねじ伏せることはできない。それを勘違いして、ひたすら気持ちを上げたり(ありえない理想やポジティブ)、高度な医学知識や理論で、操作できるはずはない。

 

シンプルだが、たんに生きるという困難さを、試みる必要がある。どのみち、緊張、不安、恐怖など、死ぬ寸前まで下手したら消えないのだから、生きてるうちに、逃げられる人などいない。世界中のスポーツ大会の人も、緊張くらいはする。

 

失敗しないか?症状が治ったか?ではなく、やるべきことや、やりたいことが出来たか、の方が大事だ。べつに、症状は、治らなくても、最終的にはどうでもよいのだ。

 

人生に病は避けられないが、病を治すためだけではないと思う。