変化を迎えていく「一年生」
人間は、恒常性があるが、あくまで、それは外観の話だ。人は、成長や老いを止められない。
じつは、変化を拒むのは、無知な態度でエゴで、幻覚だ。
変化への恐れではなく、恐れや不安によって自我が、変化を拒み、世の真理を否定する無知な態度だ。
世は常に変化している。細胞レベルで、瞬間瞬間は変化で、無常だ。
変化しないようにしているのは、「怖い」のではない。不安や恐怖は、自我の態度、無知だ。
恐怖や不安は、あくまで見せかけにすぎない。それにとらわれていたら、月夜の、仮初の姿、煩悩の現れだ。それに気づくこと。
怖いという幻覚に酔ってしまっているのだ。そして、世の真の姿を拒んでいる。世の真理は、怖い、不安ではなく、苦、無常である。
苦しいことや楽しいことも「絶対」ではない。
ありとあらゆることに、とらわれない、変化の「中」へ、生命は、流れているし、無限的なのだと思う。
変化を拒む、恐怖や不安は、エゴのパワーだ。意地を張っているのだ。
エゴを強めるのは、生命の姿ではない。
全体の流れから、疎外された、人の身勝手だ。
私は、去年から、神経症の話をしてきたが、基本的には、神経症の「主観」は、煩悩であり、無知である。恐怖や不安などは、人間の「人工物」だ。自然には、「流れ」があるだけである。怒りや悲しみもまた、無常だ。
恐怖や不安の主観で、自我が強くなっている。
身勝手な自我の「虚妄」から、変化の流れへ、「中」へ…あらゆるものは、流れいく。