心の書庫

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会話は、内容より流れや雰囲気が大事

神経症の人や対人恐怖の人が、やたらとコミュニケーションにごたわり、とらわれるが、話は基本的に流れで無内容で構わないのだ。

 

よほど重要な会議やプレゼンやなにか議事会、儀式などではないかぎり、基本的にコミュニケーションは、形式でありスキルであり、流れでしかない。

 

卒業式、入学式、朝礼、会議、あれは、流れである。流れを無視しては成り立たない。デートも結婚式も流れである。作業も流れである。好きも嫌いも結果的には、流れでしかない。

 

しかし、神経症の人のエゴは流れに逆らってまで、良い格好やうまく喋らなくてはと、力づくの計算、打算がある。だから、人目をやたらと気にし、結果的に「あがる」。緊張、不安に過剰になる。

 

さらに日常会話などは、もはや、無内容と言って良い。むしろ無内容だから良いくらいだ。「うまく喋れた」とか「自分の思いや本音をつたえなくては」など、日常会話にはまったく必要ないのだが、考える。

 

楽しいはずの宴会や会食も、飲み食いや無内容なおしゃべりの流れでしかないが、深い意味や知識や「自分がうまく喋らないといけない」と勘違いするが、日本人は、空気や雰囲気を確かめているだけで、個人の深い見解を日常会話でする人がいるのか不思議だ。

 

日常会話とは戯れである。しかし、とらわれやはからいは、コミュニケーションを流暢に澱みなく一切問題なくやらないといけない、と勘違いしているが、そんな喋りのプロなんか、日常会話に必要なのだろうか?

 

講演会や芸人やテレビに出るならともかく、無内容な戯れを表面的に楽しむ、というのが神経症患者はできづらい。

 

いちいち、自分を出したがるし、人や他人の言動を分析、観察して、好きな人を前にした「好き嫌い?」の花占いをする乙女になってしまうが、大事なのは、会話や意味を超えた、なにかを感じ取ることだ。

 

宴会、会食も、対人や仕事も、深い意味を考えだしたらキリがない。流れや雰囲気を味わっているのが、本来は日本人らしいが、いまは個人主義の価値観が、もっとアメリカ人らしく強く感情や考えを示せとか言っているが、間違いだ。

 

少なくとも日常会話に、フランス人やアメリカ人も、そんな変なディベートはしていない。

 

日本も、あまり勘違いして、言葉に囚われている。

 

神経症患者はとくに、会話を、自分の主観的観念論を完璧なパフォーマンスで、示したがるが、そんなのは夢のまた夢で、会話は捉えどころがない流れや雰囲気である。

 

自分がうまく喋ろうと、周りや自分の評価をコントロールすることしか頭にないから、ますますコミュニケーションが狂うことになる。まずは、そんなとらわれやはからいに気づいたほうがよい。

 

会食や会議恐怖や社交不安とは、そう言うとらわれとはからいのメカニズムである。単純に、自分や他人を喜ばせることにフォーカスすれば良いのだが、わざわざ不安要素を退けるという歪んだ完璧主義に陥って、必要ない要素に意識を拡大している。

 

それでは、結局のところ失敗して、周りも自分も欲求不満になる。こんな無意味なことはない。