心の書庫

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人は、不快感にさえ執着する 森田正馬


不快感情の執着

上にあげた心悸亢進発作のようなものは、特に実例について、その発作の発展と経過の状況を少しくわしく観察すれば、もっとも容易に、これが精神交互作用によって起こるものである、ということが知られる。
なお、その他単純な頭痛、めまいとか、または複雑な強迫観念というものでも、同様にこれで説明することができる。すなわち頭重は、たとえば過労のとき、寝過ごしたとき、 その他産後とか、腸炎
のあとなどに、頭部に異常感覚を覚えたことから注意がこれにそそがれて、注意と感覚とが、交互にますます過敏となり、事実が早くからなくなってあとにも、予期恐怖による注意の執着によって、ただその主観的の不快感覚のみが残り、ついに常習の頭痛を構成するようになる
のである。なおその上にことわざに「閉居は病を養う」とか、「保養と怠惰とは似て非なるもの」とかいうように、患者はこれを治そうと、静養と称してやたらに安楽に流れ、長い時間寝過し、気無精の生活をする。その結果「鉄は用いなければさびる」というように、身体はひ弱になり、元気を失い、疲労しやすく、頭はますます重く、精神はぼーっとなるのである。
めまいの感でも、これと同じ関係で、たとえば長い時間、読書して、急に立つときとか、発熱後に病床から起きたときとか、橋の上から急流を見るとか、急速度の自動車が身体をかすめ過ぎるとかい
うときに、偶然フト感ずることがある。あとでこれが病気の恐怖と連合して、執着するときは、患者は日常これに悩まされるようになることがある。その状況について、一番模型的なものは、船のよいによく似ている。 船によう人は、船からあがっても、長い時間、身体の動揺感の去らないものである 森田正馬

 

感想

 

森田正馬は、今の時代では、もしかしたら炎上するかもしれない。

神経症者に対して、森田曰く、「患者はこれを治そうと、静養と称してやたらに安楽に流れ、長い時間寝過し、気無精の生活をする。その結果「鉄は用いなければさびる」というように、身体はひ弱になり、元気を失い、疲労しやすく、頭はますます重く、精神はぼーっとなるのである。」

 

つまり、休むな、と言っているわけだ。

 

しかしながら、私の神経質体験から言ったら、これは、間違いとは言い切れない。

 

というのも、薬物療法にせよ、なんにせよ、最後は結局は、自分でなんとかしないといけないのだから、ずっと家ににいるわけにもいけない。

 

私も、静養した方が良いと思って休んでいたときもあったが、果たして効果があったか微妙だ。

 

行動すればよいわけではないが、不快な主観的な意識を定着させないように、神経症者は、休まず「必死」になって、無我を体得したほうが良いと森田は言っている。

 

なかなかシンプルで難しい部分ではある。

 

西洋では、無意識を意識化して、態度や価値観や思考の変化を大事にする。フロイトでさえ、ユングフランクルでさえ、やはりそうだ。

 

しかし、森田正馬は、東洋精神的に、理屈や思考を超越しろ、という坐禅に近いものがある。

 

私も、雑念、恐怖妄想などがあって、会食や座って物を食べるときでさえ、なにか倒れるのではないか、という卒倒恐怖妄想があったが、たまたま時間に追われている時、必死に飯を急いで食べたら、なんともなかったことがある。

 

つまり、意識はそれくらい、良くも悪くも「バカ」で、主観的というのは、森田正馬には良くないのだ。

 

必ず人は、必死にはなれないが、ヒントにはなるだろう。

 

西洋と東洋により、無意識の扱いが違うのが興味深い。フロイトなどは、無意識やコンプレクスを原因にしたが、森田正馬は、そんなことは、どうでもよいとばかりな側面がある。

 

神経症者は自意識過剰になりやすいから、自意識過剰になりつつ(自意識過剰にならないようにすると、自然に逆らうことになるから)も、やるべきことに「打ち込む」というのは、まさに座禅の修行に近いだろう。