心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

人工的の拙策に雁字搦めになるな 森田正馬


それ故、思想の矛盾を打破するということは、寒さは当然これを寒いと感じ、苦痛、恐怖は当然これを苦痛、恐怖し、煩悶はそのまま煩悶すべきである

 

いたずらに人工的の拙策をもてあそんではならない、ということに帰着する。 これはつまり私たちが自然に服従すること、事実すなわち真理に絶対服従する意味である
こういうことは患者のとるべき主観的態度であり、心の置きどころである。しかしなお、ここに注意すべきことは、この心も態度も、患者がこうなろうとする目的またはこうなればいいという結果の
状態であって、こうなることのできる手段とか条件は、これとはまた別のことである。すなわち、もし患者がみずから直接に、読んで字のごとく、どうすれば、自分が自然に服従することができるかと
工夫し、あるいはみずからこの態度になろうと努力すれば、これはもう自然ではない。なぜなら、エ夫、努力は、すでに自己を第三者として、客観的に取扱おうとするものであり、自己そのものではな
からである。そこで、この精神的態度となり得るような条件はほかでもない。外界の事情、境遇の選択がこれである。

 

たとえば背水の陣をしいて、はじめて必死の覚悟となり、孤独の境涯に身をおい
て、はじめて他人のいたわりや救助を受けることができない、という決心がつくのである。

そうでなく、 いたずらに思想的に必死を想像したり、独立独行を論じてみたところで、すべて虚偽であって、けっして真の勇気と断行心のできるものではない。これらの関係は、あとで述べる発作性神経症に対する私の療法によって、明らかに理解することができるのである。

 

感想

 

ここは、森田正馬はかなり重要なことを言っている。

神経症症状に対して、余計な企てはするな、と言っている。

普通の神経質なら、よくわからない理屈や思想や、薬に頼りがちになるが、「しらふ」でいけ、と言っている。

森田は、「不安定に安定せよ」という。熱いは熱い、辛いは辛い、当たり前だ、逆らうな、と言っている。神経症者は、「かくあるべし妄想」がある。怯えてはならない、人から嫌われてはいけないだとか。しかし、人としてそれは、ありえないのだが、「こだわる」。

 

自然に逆らわないこと。それは、たとえである。クーラーを使うな、とか、そんな話ではない。熱いのは熱いと認めて、死にそうならきちんと死を恐怖して、適宜、素直にクーラーをつけろ、という意味だ。神経症者は、かたくなに寒さや暑さにとらわれて、「痩せ我慢」したがる。苦しみに対して、痩せ我慢するような「虚栄心」だからである。私の身内にも、つまらないことで、虚栄心を満たすような人がいるが、神経症症状がある。パソコンやエレベーターやエスカレーターやスマホやクーラーを意地でも使わないのだ。それは、できないのではなく、そんな「テクノロジーに甘えている奴ら」と周りを見下しているからだ。典型的な神経症者の自尊心である。ある精神科医は、神経症者は「甘え」がうまくできないという。だから、変なところで意地を張る。熱いなら素直に熱さを認めて、クーラーをつける、「素直なこころ」がない。やたらと疑い深く、甘えや、弱さを認めることができない。さらに拗れていく。身内に神経症者がいるからよくわかる。あまりにもつまらない意地ぱりである。

 

 

このように、精神の態度として、自然に逆らって、ありもしない理想や安定のギャップや抑圧があるから、強迫や症状が悪化する、と言っている。

なぜなら、森田正馬は、「工夫、努力は、すでに自己を第三者として、客観的に取扱おうとするものであり、自己そのものではない」

これは、主観や客観を超えろ、ということだ。なかなか言っていて、難しい。ほとんどの人が、自己を第三者として扱って、直感的に生きていない。せいぜい「主観」を直感と勘違いして感情的に、幼稚に生きている。それは素直さではない。

 

直感とは、年齢は関係ない。それは、いわゆる「突入」である。いちいち、自己など振り返っている暇などないことだ。Eフロムは、近代化の人のありさまを、「自分で自分に悩む」と言っているが、自分なんかに悩んでいる暇さえなければ、文字通り、悩んでいることさえできないのだから、理にかなう。

 

嫌いな食べ物を、主観的に嫌ったり、客観的に見て分析などせず、「えいや」と食え、ということだ。