心の書庫

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真の痛みではない 仮性幻覚とは


自己の内部(主として身体の一部であるが観念的なものでもありうる)への投射である。これは内部投射と名づけてもよいであろう。 (胃の痛みも、胃潰瘍などの真の痛みではなく、痛みの仮性幻覚であり、それはその患者の不安がそこに投射されたものと考えられる。むろん精神生理学的変化とも関係する。)
ではこの場合、何が投射されるのか、患者に意識されないものは何かといえば、 適応不安の感情である。つまりこの不安は漠然と神経質性格の中にあるが、このような不明りょうな不安をはっきり対
象をもった恐怖として意識したものが、神経質の症状であるといえる。だから治療は、症状をあるがままにして、この不安そのものに直面させる。さらに不安を生みだした神経質パーソナリティに対す
る洞察へと進む。これが森田療法の大筋であるといえる。(第三図参照)
(神経質性で身体感覚のどの部分に訴えが多いかということを、慈恵医大神経科の調査でみると、頭重、頭痛
など頭部に関するものが、調査した三二四例のうち二〇一例でもっとも多く
、それについで心悸亢進、胸内苦悶
など、おもに心臓に関するものが九七例である。人間にとってとくに重要な器官が選ばれていることは面白い。
これからも不安感情が、それらの身体部分に内部投射されていると考えて、理解しやすい。 患者はそこに重大な
病気があるのではないかと恐怖する
のである。) 森田正馬の療法解説 引用より

解説

 

これは、個人的に理解ができる。

神経症者は、擦りむいた傷もないのにあたかも、「擦りむいたかのように痛む」ような、幻覚に近い作用を、自己暗示的に発生しやすい。

しかし、医者や他人さえ「どこが悪いのか」分からない場合がある。私も散々病院に行ったが、なにもなかった。

 

 

病院に行っても、原因が分からないだとか、ストレスだとか言われたりする。

このような場合は、心身症神経症不安の主観的な幻覚作用に近いものである。患者は、この自分で作り出したことに向き合って、痛みではなく、不安そのものにきちんと向かっていって、それを乗り越えていけることを体得する必要があるといえよう。

もし、理屈や感情や薬で防衛したくなっても、率先して、恐怖や不安に「なろうとする」ことでむしろ治ることを知らせる。

回避したり、恐怖や不安を退けようとしたり薬や治療理論に頼ろうとしないで、症状を周りに口にして不安を撒き散らさず、きちんと自分で不安に向き合って、乗り切っていけることを、体得してゆくうちに、感情の作用(感情は必ず上がって下がってゆく)ことがわかる。

だから、逆説的に、「わざわざ不安や恐怖になりにいこう」とすると、それが、皮肉なことに、感情の作用で、「上がることで下がる」ことを学ぶ。「不安を避けることで強めたり」身体に異常がないのに、いたずらに自分を優しく、静養したりしないようにする。(神経症不安の人は静養したがるがむしろ逆効果になる)

 

私もそれはわかる。神経症者は、家にいて、不安を回避したから治ったと錯覚しやすいが、たんに回避しただけでしかない。

 

かつて、私にも、パニック症状があったが、結局は、無理矢理、外出や電車に乗りこんで、いまは電車に乗れる。薬は使ってない。

 

そもそも自分は身体には異常がないから、不安なら恐怖ならそのままでよい。さあ行こうとする。シンプルだがなかなか難しい。しかし、治る最善の道である。

 

私は、自分をか弱い繊細な人と思い込んでいた。

実際には、ただの変態性癖である。主観作用に偏りがあり、他人が理解不能な主観的な幻覚作用に自分で勝手に悩んで周りを僻むこと(自己暗示)ばかりしていたが、それは、「あまりに滑稽な一人芝居」だったと回顧できる。なんの意味もない、時間の無駄だった。周りの人達にも、当たり前だが意味はない。

 

時間の無駄、と言えば、まさにそうだ。目的論的には、アドラーなら、「あなたは現実から逃げる時間稼ぎをしていないか」と問われたら反論できない。神経症には、心理的な意味のある場合もあるが、大半は残念ながら、無意味である。

 

たとえば、多汗症で汗がきになる人がいて、汗を四六時中気にしても、周りはどうでもよいのだ。残念ながら神経症とはそうゆうことだ。

 

私が勝手に電車や犬や幽霊に一人芝居で、ビクビクしても、他人にはまったく意味のないどうでもよいことだ。

 

神経症者は主観だけが大事になってしまっている。人生は、主観や客観を超えた「直感」、「直面」がある。

 

神経症者は、主観的な幻覚作用や感情ばかりになっている。「人生そのもの」を生きようとはしないで、「幻覚作用の病気」の世界に生きようとする。

 

神経症者は、周りに気を引きつけるために、不安を投射している。それで周りから、「労って」もらおうとする。それが慢性化すると、病んでいないのに、頭痛やら腰痛、腹痛やら不眠やらを騒ぎ始める。しかし病院に行っても、重大な疾患はないが、まだ不安そのものに直面しないで、大量の服薬をしようとする。

 

自己中心性の高い患者にはありがちだが、フロイトの疾病利得という観点も見逃せない。目的論的にも、病気の幻覚作用に「酔って」いれば、なんらかの得があるということになる。周りも他人も、そういう「防衛」に気づいてないと、いよいよ問題になる。

 

たしかに、問題に「直面」しなければ、人は主観の虜になって「辛いが楽に生きられる」。

 

不安や恐怖そのものに直面はしないで、「不安や恐怖になるのではないかという不安や恐怖」というヘンテコな一人芝居をしている状態である。

 

こういうことは、不安や恐怖を感じても、死ぬわけじゃないと粘り強くアドバイスし、ひたすら恐怖や不安の「渦中」にいくことを繰り返す。

 

私は、パニック症状や謎の眩暈の経験から、それが、薬抜きでも、辛かったが気づいたら治った(しかも恰もなにもしていないかのように)ことを学んだ。

 

実際に、なにか「特別な治療」をしたわけではないが、幻覚作用や主観のとらわれに気づて、「繊細」ではなく、自分がただの「変な性癖」の「時間稼ぎ」をしている「ヘタレ」の「一人芝居」をしているだけと気づいて馬鹿馬鹿しくなっただけだ。