心の書庫

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気を紛らわそうとしない

ありのままとは、雑念や恐怖や不安がありながらも、やるべきことやれる「大人」な態度であり、なにもしないで開き直ることではない。

 

よくベテランのピッチャーが、悪いなりにまとめました、というが、それが「プロ」である。

 

しかし、いちいち幼稚な理想や完全思考や周りから嫌われないか、変に思われないかと気にしてばかりでいれば、到底、「大人」とは言いがたい。

 

森田正馬は、自分だけは真っ先に不安になれば、音楽を聴いたり呼吸法などを駆使して、回避すること、すなわち気を紛らわそうとするのを止めろ、という。自分だけは必死に救われたい思いばかりで、周りも事実も見えていない。

 

 

 

苦や不安や恐怖は、実は乗り越えていけることを「体得」するには、経験が必要になる。乗り越えられるが、逃げられるわけでも、支配できるわけでもない。なぜなら、ありとあらゆる生命は死ぬからだ。

 

「悪いなりにまとめる」ということ、一方「不快感はあったが、外観はきちんと成果を出した」ことに意味があるわけだ。いたずらに騒いで「不安をとりのぞけ」と言ったら死ぬまで薬物漬けになるしかない。

 

ありのままとは、けして、開き直りや楽観主義や「勇気づけ」ではなく、ありのままの恐怖と不安に回避したりせず向き合い方を体得できるようにすることだ。それは、完全指向ではなく、悪いなりに纏めるということだ。歳をとったり生きていれば、誰もが傷や苦は避けられないが、「取り除く」わけにはいかない。

 

人は、感情作用により、否が応でも慣れてしまう。最初、死体を怖がっていても、いつしか「当たり前」になる。

 

不安や恐怖は、残念ながら、内面の幻覚である。神経症者は、病気と疑って譲らないが、大部分は、自己暗示や迷信や疑い深さによるものだ。トラウマは、たんなる「きっかけ」にすぎない。

 

仏教の真理では、世は無常、苦、生者必滅というが、ほんらいの「世界」は、実際は、なにもないという。

 

しかし、我々が、悟れるはずもないので、森田正馬は、逆に、小心で良いという。

 

苦悶に突入して、苦悶から出ることを繰り返していれば、恰も100回も出入りしたホラーハウスのように、不安や恐怖を感じながらも、いつしか、それにとらわれなくなる、という、当たり前すぎることを言っているに過ぎない。

 

ホラーハウスに何千回と通えば、そのうち不安や恐怖もありながらも、なんともない。

 

しかし、やらないから、いつまで回避したり、気を紛らわそうとしたり、足しげく病院に行ったりする。医者や薬に「どうにかして」と言っても始まらない。神経症以外の、普通の病も治療や予防も、基本的には自分でやるしかない。手術で不安や恐怖を取り除けるならみんなやっている。しかしそれはロボトミーでしかない。

 

不安を生の欲望に絡めた森田だが、結局は、欲望だらけの煩悩では、苦しみは避けられない。それは人の摂理だから、皆同じであるが、神経症者はいますぐにでも、自分から苦や不安を取り除きたい。それは可能なのか。

 

解脱など、簡単ではないので、苦を認める避けられないことを「会得」するほうが、1000の薬や千の知恵よりマシである。

 

一時凌ぎの、呼吸法や自律訓練に頼ろうとするが、一時凌ぎや気を紛らわそうとするのを、やめて、きちんと苦難に直面すること。おそらく現代人がもっとも避けている課題ではないだろうか。向き合わない、ということ。気を紛らわそうとするより、正直に苦悶しろというのは、たしかに常人には理解不能だろう。

 

科学的にはまったく間違いとも言い切れない。なぜならエネルギーは反発するほど強まるからだ。余計な反発をしなければ、エントロピー的に感情もエネルギーも、高まって必ず下がるようになっている。だから、森田正馬のやり方は、神経症に関しては間違いではない。神経症は、苦悩や恐怖を「避ける」から、起こるのだから、避けないで不安や恐怖を認めれば「反発としての症状」が現れないのは、むしろ理にかなっている。

 

森田正馬は、安定で揺るぎない自分ではなく、「不安定」に身を置け、という。安定しているから揺らぐのだ。人生は揺らぎや困難の連続なのだから、揺れる、不安定、不安、恐怖が基本的ステータスなのだが、神経症者は「あり得ない健康体」をイメージしてしまう。文字通りありえない。プロサッカーや野球選手も、持病や怪我はあるのに。そのうち「治るまで」なにもやらないようになる。

 

神経症者は、病気が治るまでやろうとしなかったり、とらわれてしまうが、常人は癌でさえ、死ぬかもしれなくても最後までやり抜こうとする。それが、ほんらいの生き様だからだ。

これが、神経症者は分からない。病気であっても、治らなくても、治っても、やろうとしないし、やりたくないのである。その病が言い訳になるうちは…