心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

常に不安であるという安心


また既往の(神経症の)異常時のことを
追憶して夢のように感じ、あるいは、なぜあのような考えを起こしていたか、自分で不思議でならないとかいうような患者もある。

こうなって患者は、はじめてよく、「夢のうちの有無は、有無共に無なり、迷いのうちの是非は、是非共に非なり」ということを適切に自得するようになる。

 

参同契の語に、「触目、道を会せずんば、足を進むるも、いずくんぞ路を知らん。歩を運ぶは、遠近にあらず、
かため迷っては、山河の固を隔つ」ということがある。

「悟り」なり、良智なりは、すぐ目前の日常現実の体得にあって、思想の矛盾におちいるときは、いくら探し歩いても、いたずらに迷いに深入りするばかりである。

思想の矛盾から出発したときには、あるいは悟ったと思い、解決したと信じても、それは常に迷いのうちから脱することができないのである。

デュボアなどのように論理的説得法で恐怖に打ち勝つとか、自信をつけるとかいう方法では、あるいは一時軽快の状を呈することがあっても、その再発をさけられないのである。
なお、一般神経質または強迫観念の患者のうちには、ときどき、この療法を終って全治退院する頃に、家に帰ってからあと不安なく、十分に勇気をもって、活動してゆけるかどうかということを心配するものがある。 このようなときに患者は、必ず自信とか勇気とかいうものを棄てなければならない。 常に不安そのままの心をもって、おのおの自分の境遇に対処してゆかねばならない。たとえば私たちは、世の中をつねのすみかと仮定して、思想による虚偽の安心を保持して進むものではない。 人生は諸行無常であって、常に不安心であるという心に常住していれば、そこにはじめて大きな安心があるというようなものである。

 

感想

 

森田正馬曰く、「デュボアなどのように論理的説得法で恐怖に打ち勝つとか、自信をつけるとかいう方法では、あるいは一時軽快の状を呈することがあっても、その再発をさけられないのである。」というのは意外である。

 

悟りの境地に関してはなかなか我々には難しいが、要は森田は、不安を悪戯に、排除しないで、「不安なんか当たり前だから不安でいろ」と言っているのだ。

 

不安症の人からしたら、「?」という話ではあるが、それを悪戯に、操作しようとすれば、ますます不安は強くなる。

 

だから、不安は不安であれという。

 

森田正馬は、思想やかくあるべきと考える前に、生は諸行無常であって、常に不安心であるという心に常住していれば、そこにはじめて大きな安心があるという。

 

森田はユニークな発想で、フランクルのような逆説療法をやっている。

 

このようなときに患者は、必ず自信とか勇気とかいうものを棄てなければならな
い。という発想が、森田正馬の、弱いままありのままいけということだ。

 

たしかに、私も緊張していても、何度もやっていくうちに、なんとなっていくものだが、それは「体得」である。

 

思想や理屈や薬を神経症に使っても、なかなか治らないのは、不安や恐怖に向き合わないから、回避行動によって悪化する。

 

不安は実は避けて家にいたり、人や外食を避けるほどに強まる。

 

私も、半信半疑で、外に出ていったが、治療効果はあったと思っている。

 

主観的な不快感情は、回避したり、意識すると「栄養」を与えることになる。

 

当たり前だが、ビビりながら、なんとか舞台にたつのが、人の試練だろう。イチローも胃を痛めながらwbcに出ていたのだから。そうやって人はやってくのだ。