心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

当たり前を認めるだけ

よく、森田は服従という。雨が降ればせいぜい傘をさすが、雨自体を消せない。しかし、雨や嵐まで、強気や考え方で消えるはずもない。嵐がきたら不安だし、怖いし、悪天候がイヤなのは当たり前だ。それに逆らって、「どうにかする」など医者も本人もできない。傘はあくまで薬であるが、毎日まさか傘をさしつづけるだろうか?

 

世の中は、逆に、自分の頭で考えろ、変に思われるな、嫌われるな、迷惑かけるな、という、とらわれや不安や恐怖で人を縛っている。しかし、自分の考えに従って、いったい人がなにを考えるかは、基本的に、自分の事だけである。いくら家族や天下国家と言っても、自分がいてのものだ。自分と関係がない家族や国や民族について、地球環境に考えが及ぶなら、とっくに治っているだろうが、神経症の人は、ひたすら病気と自意識の中にこもって、まるで世界の終わりのように、ガチガチで生きている。しかも、かなり狭い世界の囚われで、自分の病気のことに完全に支配されている。やがて、性格が悪くなってくると、それを理由としてついには、なにもやらなくなる。しかし、病院に行って、器質的な病理的な検査をしても、原因不明か、ストレスや自律神経失調症と言われて、突き返される。自分にとらわれ、周りの世界の「流れ」に入れず、いちいち、症状のエゴイズム、良い格好したがり、虚栄心や権力欲から、さまざまな神経症的症状を、ランダムで吐き出す。

 

人からよく思われるには、それなりのアクションや積み重ねは必要になるが、神経症的願望の場合、たんに、否定的に思われないために、結果、「自分酔い」をして、「やっぱり嫌われている」「やっぱり世の中は人は醜い」と言う、いつもの、対人恐怖、不安の機序、スキームをひたすら強めている。

 

よく神経性の吐き気やめまいもあるが、それを気にするあまりに、そういう現実を振り払おうとするために、さらに、とらわれてしまう。彼ら彼女らは、吐くのでは無い。吐いたことをきっかけにして、「吐いたらどうしよう」と悩んでいる。あるいは、もし、パニック発作が起こったらどうしようとしている。つまり、起こってもいないのに、予期不安で勝手に苦しむ。気持ち悪いなら薬を飲むしか無いし、トイレ行けば良いし、人になんらかのアクションはできるが、ひたすら不安だけを募らせる。あるいは、そもそも不安などは、コントロールできない。どうしよう? ではなく、恐怖や不安など、そもそもどうしようもない。

 

人に言われなくとも、自分の無意識のうちに癖で身体や考えが、ガチガチになっている人がいる。が、それは、そもそも、自分の心的な作用に他ならない。

 

まず、真理とは、ダンマパダにも示してあるように、人から非難されない人などいない、ということだ。

 

これを、神経症的な人は、完全志向から、不可能に挑戦して、やれることを疎かにしたり、やらなくなる。

 

やがて、病気のスキーム、機序にとらわれて、まったく同じ病気的言動ばかりを繰り返してしまう。それはすべてリビドー的欲求が、病気に対して、あるいは治すことだけに注ぎ込まれるようになる。人として、広がりがなくなる。よく、病理的な人や痛い人と言うが、人としての表現や広がりながなくなり、やがて衰弱した老人のように、「病気でしかなくなる」。神経症的な人は、器質的には健康なのに、「病気でしかなくなる」。

 

そもそも、人は、どことなく、嫌われたり、気持ち悪がられたりするものだ。避けようがない。対人恐怖以前から、人の感覚、感情などは、無軌道以外にはない。留まることはない。あくまで我々はスキルで、ある程度、纏まりをつけられる程度でしかない。

 

普遍的な真理を捻じ曲げたり、考え方ひとつで変えられるはずはない。

 

森田は、服従し、観念する大切さを言う。克服したり、征服、支配、コントロールするのではなく、たんに怯えながらやりなさい、何度も地道にやろうと、言う話しかしてない。フランクルは、病気の状態でいることをbeingと言った。しかし、人は、自覚的に病気を持つhaveもできると言った。しかし、神経症的欲求の強い人は、病気に支配され、とらわれている。それは、森田正馬が言う、生の欲求である。欲求不満が強いなら苦は必然である。病気ではなく、あまりに欲が強いのだが、それに見合った言動はできない。したいのだが、神経症的な人は、「それをしようとするとできないんです」と、出勤したりなにかをしようとすると、いちいち、あそこがどこが痛い、気持ち悪いなどと騒ぎ出す。しかし、スポーツ選手や世の中活躍している医者でさえ、持病はある。神経症的な人は、「あれは強い人だからできる」と言うが、残念ながら皮肉なことに、神経症的な人は、「強い性格」を持っている。「強い性格」と「弱い性格」の激しい二面性やギャップが、まさに古典的な日本人の神経症的性格モデルだ。文学ならたとえが古いが、三島由紀夫太宰治みたいに、繊細さと強さの「混合型」だ。神経症的な人は、たんに弱い性格ではない。

 

さて、とらわれとはからいとは、作為と人工の硬直を招く。ありのままの普通の人は、違和感がありながら、それで生きている。いちいち神経症的に逆らわない。人間関係や仕事など、流れである。大切な時だけ向き合う必要があって、全てをどうにしかしようとしたら、その時は、意識の狂気だ。

 

周りを見渡したら、周りを品評する前に、自分の中のこだわりや我欲がないか、チェックする方が優先度は高い。

 

周りを変えるより、そもそも、欲望に支配されているのも、とらわれとはからいの心的現実に生きているのは自分でしかない。