心の書庫

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心理的な「酔い」「眩暈」について 森田正馬 

心理的な「酔い」「眩暈」について 森田正馬 著書生の欲望から

 

引用はじまり

承前 
それから、ピンツは、船の動揺によって脳動脈の収縮を来し、脳の貧血をおこして眩暈や嘔吐をおこすのであって、あたかも脳震とうのようなものだ、と言っている。これもトルーソーの説と五十歩百歩であり、船酔いの治療には何の役にも立たないのである。こんな学説は、一見学問らしい難解な理論を立てたものであるが、現象をありのままに把握しないために、実際から遊離してしまうのである。その論理の誤っていることは前に上げた非医者の理論と大差はないのである。船酔いは、心理的に言えば、船の動揺と自分の気持ちとの間に食い違いがあって、調和を得ないためにおこるものである。どんなに船に酔いやすい人でも、自分で船を漕ぐときにはけっして船酔いはおこさない。それは、船の動揺と自分とがしっくり調和して一体になるからである。

 


何も、船酔いの説明に、三半規管や脳の貧血をもち出す必要はないのである。

 


事実を無視した理論なお、学者は不注意のために、しらずしらずの間に曲学の弊におちいることが多い。それは学者が自分には実地の経験が乏しいにもかかわらず、医学的常識であてずっぽうに推論することからも生ずるのである。つまり、理論をもって事実を曲げて見ることになる。たとえば神経衰弱について言えば、「衰弱は疲労からおこる、疲労は過労からおこる、過労は刺激の多いことからおこる、文化生活には刺激が多い、したがって文化の発達によって神経衰弱にかかる者が多くなる」というふうに考える。神経衰弱というものの実体をよく観察しないで、論理によって手っとり早く理論を出そうとするために、このような誤った結論を出すのである。

 

memo→

近代的理性主義や、機械文明が、人に不安神経症を齎した側面はあるかもしれない、という「一般的な因果関係」を森田は退ける。

 

 

神経性不安も、実は、皮肉なことに、「避けようとすることで強化する」わけである。不安神経症者を排除して、認めよとしない。

フロイトなどが、パニック障害や乗り物恐怖になったのも、ある意味での、無意識的な、近代文明や機械化への心理的な排除や拒絶や、その他の意識できない「現実」への非調和にあったのかもしれないが、「文明的な進歩」と不安神経症は関係はない。スマホやテレビが発達したから、病気が増えたは、成り立たない。

 

無感覚=海のイメージや自然に、機械文明や理性が過剰に入り込んだバランスの崩れ、心理的な欲求が強い人や、自然なものとの親和性が高い人が、「現実」との非調和を起こす「時」、近代文明の象徴する汽車(電車)や飛行機、など文明的な場に起こりやすいだけで、「文明そのものが因子ではない」。これは、あくまで、なに対しても非調和というキーワードから分かる。それは、現実全般であり、人間的なかかわりによる不安である。

 

 

 

承前つづき

 


たとえば学者は、船酔い、あるいは神経質の眩暈(目がくらんで頭のふらふらする感じ)について、それを三半規管の平衡障害からおこる、と言う。それは、三半規管の平衡障害は眩暈をおこす、二船の動揺は眩暈をおこす、したがって船酔いは三半規管の障害からおこる、という三段論法である。それはたとえば鋸は切れる、大根が切れる、したがって大根は鋸で切るものである、という論法と同じである。

メニエル病といって内耳をおかす病気があり、その病気にかかると一種の眩暈症がおこる。しかしこの事実から、すべての眩暈は内耳の障害からおこるという逆説を用いるときには、大きな誤りにおちいるのである。

船酔いについては、これまでいろんな学説が立てられている。たとえばトルーソーは、「船酔いは胃部神経の刺激によって内耳迷路の血管神経の興奮を来し、 迷路の内リンパの圧力関係に影響を及ぼすことからおこる」と言っている。それはおそらく、船酔いのときに吐気をもよおすことから思いついたのであろう。しかしそれは私の考えによれば、あべこべの説明であるように思われる。

それはたとえば、「鋸で切るときには歯の方をあてて前後に引き、その歯が切れるものの内部に食い込むことによって切れる。したがって大根も鋸で切るものである」と言うのと同じであり、余計な説明と言うほかはない。 森田正馬 生の欲望 より引用おわり

 


memo

あくまで、神経不安や眩暈の、心理的な機序の場合は、なんらかの、アンバランスや非調和という点はヒントになる。

森田正馬言いたいのは、たんに、心理的レベルで考えたら、外的な因子は、余計だということになる。因果関係で説明しようとしたら、船ではなくても、別に、「揺れるなにか」であれば、文明関係なしに現れる。それこそお神輿や木の船や、近代文明以前から、不安や酔いはあったろう。文明の発達が原因にするよりも、むしろ、心理面の無自覚が発達したという逆説がある。ゲームがあるから、少年が犯罪的になるというのは、おかしい。犯罪的な欲求不満や思春期の悩みはいつの時代もある心理的な欲求だ。あくまで精神病や神経質は、基本的には、心理的な動機づけであり、生理的かつ、外因ではないことは、明らかである。

 

いじめられたから、

虐待されたから、

貧困だから、

ゲームをしていたかから、

などというのは、解釈としておかしい。「犯罪者はラーメンを食べる」のなら、ラーメンを食べるのは、犯罪者である可能性は高いだろうか。一般的な食べ物なら、食べている確率は高い。少年犯罪者はゲームをよくする、のではなく、少年はそもそも暇な時は、サッカーや野球やゲームをしても不思議ではなく、活発な少年が、そういうことをしているから、

犯罪的になるわけではない。そうなると、現代文明に生きる人は、ほとんどが、不安神経症で、犯罪的な可能性がある。が、世界大戦時に比べたら、明らかに世の中は、悲惨はありながら、継続はしている。これに、どう反論するか。V.フランクフルも、ギーゲリッヒも、フロイト神経症者は、あくまで心理的機序で見ている。それをやったら絶対に神経症や精神病になるような因果関係があるとしたら、とっくにみんな病気である。が、実際のところはどうだろうか?

森田正馬も、あくまで「心理的な欲求」要因が、心理的な理由で、身体化していることを指摘している。いわゆるヒポコンドリーのことである。そういう神経症者は、母や父がどうだから、思春期にいじめられたから、という。しかし、家庭環境に愛がない人が、みんな神経症なのだろうか? むしろギーゲリッヒは、「神経症者は症状のための創作的なストーリーを作り上げる」としている。すなわち、「船に乗って酔うストーリーそのものに酔っている」のだと。

 

が、実際のところ、「心的な現実を材料にして、きっかけにして病気を創造するのは心的動機づけである」と、ギーゲリッヒはユングを通して明らかにしている。「心理的なストレスがあるから胃潰瘍、眩暈になったなら」心理的なストレスを避けられない人類はみな、胃に穴が空くことになり、人類はみな、眩暈の中にいることになるが、心理的な眩暈を生み出した本人は、まさに本人である。必ず、疾病利得があるのを、背景に据える。神経症者の「欲求」や「現実創造力」が裏目に出たり、イニシエーションとして、現れる場合がある。