心の書庫

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ギーゲリッヒの神経症概念

この人の神経症概念は、まず、ある種の神経症は、たんに心的な筋書きに過ぎないと言うことに尽きる。悪く言うと、自分で自分を演出して、神経症を創っているのだから、治るときも新たな「筋書き」による、と言うことだ。つまり、外的要因などは、決定的なのではなく、神経症=物語の筋書きの「役者」を見抜く必要があると言うのだ。まあ自作自演のことだ。ゲーリヒは、心的と「心理学的(ナラティブ)」な次元を区別する。フランクルなら、心的神経症と、精神因性神経症のように区別した。神経症をたんなる心的メカニズムの機序としながら、他方では、心理学的な意味や物語をいう。心因の自作自演としての「悪さ」をする神経症は主に退行的機序や、未来を創造したくないがための、防衛で現れる。だから、逆手にとれば、自作自演の心因神経症の「物語」を見抜き、さらなる、自己の発展も、見いだせるわけだ。

 

神経症概念自体が、創造的な物語であると言う。つまり、外的要因などは、あくまで、きっかけにすぎない。純粋に神経症は、心的要因から作り出された、ありはしないが、ありうる「創造性」なのだ。神経症者は、このクリエイターの資質がある、と言う物語性を詳らかにしていくのが、ゲーリッヒの神経症概念である。

 

ある種の神経症者は、トラウマ的な筋書きを生きるが、治る時も神経症ではない筋書きが必要になる。しかし、自作自演に気づいたとしても、充分ではない。自らその「神経症を生きてみせて」意味や物語を解明することで、「神経症によって神経症を治す」と言う内在理論が大事になる。外からのメタ構造を暴くだけでは足りない。固有の神経症体験によってこそ、むしろ神経症は、「発展してゆく」。だから、サナギから蝶になるような、神経症は、進化の前の不安定さや、妊娠中のナーバスやつわりにも似ている。それを経てこそ、新たな命なのだ。神経症者には、固有の神経症体験を生きてみて、答えを探ってみると言う自己の発展こそ、治癒のカギになる。

 

ユングには神経症に意味を重ねすぎるが、ゲーリヒは、逆に自作自演の罠も指摘する。神経症者は、「今のままでいようとする物語」をさしあたり症状で妨害する。「あらたな創造的自分」になって、「古い自分でいたい」の退行と成長の自作自演の「物語」だ。こういうとき、神経症者のたくみなクリエイターの資質を見出せる。人は人なりの「不幸の物語」がある。なにかしらの心因性の口実があると言う。外的な出来事はあくまで、神経症のきっかけよりも、「神経症に利用される」わけだ。仏教のダンマパダの、「ものごとは心にもとづき、心を主人とし、心によって作り出される」と言うのは、心理学における神経症ついても、真理なのだ。

 

ある意味では、神経症は、結局は、「それまでの自分の別れ」でもある。ユング神経症体験は、「もう子供ではない」と言う別れである。私は、神経症者は、タイミングがあると言ったが、「新たな人生を」創作するとき、魂は再生する可能性もあるのだ。神経症によって、失われるものや、「もうそれまでの自分ではない」と魂レベルでの自覚を見破るのだ。神経症は、このように、フロムがしてきたような「自分で自分に悩む」と言う特徴があるのだ。自作自演の罠を、気付きつつ、距離を測りながら、失われた過去の私と、新たな創造が、神経症には、あるようである。神経症は、たとえるなら、新たな川の流れの合流前に、邪魔をする岩のようで、悩まされてしまうが、それを置いたのも自分であり、どかして合流するのも自己である。やがて、源である、淀みない川は、海に向かって、流れは巡ってゆく。しかし、発展には、恐れが生まれる。ある種の神経症者は、それを恐れたり、子供で居たいとする。だが、もう、我々は、いつまでも子供でいられるだろうか? これを知った先には、我々は、海で巡り合える。