労わるほど栄養を与える
よく、神経性者は、自分は弱いと思っているが、リビドー的欲求や権力欲は、神経性者はむしろ「強い」。が、人は反面弱い。このギャップはなかなか埋められない。
神経性者は、強い性格を持っているし、器質的には健康だが、やたらと自分は繊細で病気というから、休みたがる。だから、労わりを周りに強要したり、チヤホヤされたがる。
自分自身でさえ、心的な作用機序で病気になっていると気づかずに、休めば治すだろうと錯覚し、休職するが、そのときは、良いが、治ったのではなく、回避したからだ。
神経症は回避したがり、回避すればますます強まる。だから、労わりや回避は、神経症にとっていわゆる「好物」である。
神経症的な自尊心は、弱さや怠けや人間的な未成熟さや心的欲求不満があるが、「強い性格」が、それを、邪魔をする。
だから、なにかしらいい訳が必要なり、さしあたり、それが、病気、不安、恐怖になる。それがあることで、やらないことに正当さが生まれる。いわゆるアドラーの目的論やフロイトの疾病利得で説明は正しい。
神経症的な自尊心は、周りの現実を必要とし、素材にして、「自分のストーリー」を作り上げて、やがて自己暗示や妄想で、ひたすら成熟を拒む。
ナラティブセラピーなら「新しいストーリー」が必要のはずだが、神経症的な人は、ひたすら回避的になり、世の中や人は、結局、冷たい、嫌い、嫌だ、人も自分も嫌いしかし、「強い性格」はさらに、それを認めたがらず、虚勢を張るようになる。
とにかく、神経性者は、実は、健康で、性格的な強さがあるが、長続きしないことを気づく必要がある。
神経性者は「続けること」「地道な積み重ね」を回避する。むしろ、それが目的ともいえる。
そういう地味な現実を回避していれば、「努力が報われない」ために、努力をする。変な話だ。
「努力が報われないための努力」をすれば、現実に直面しないでいられ、いつまで依存や、「弱い立場」にいられる。
弱い立場には、責任が伴わないのだ。「努力が報われないための努力」をしたがるのが神経症的欲求である。
そうである限り「不可能に挑戦」できるからである。神経症的欲求は、「自分がボロボロになって報われず生きているストーリー」が刷新されないまま古本屋にあるようなものだ。
人や生物は、学習する。あまりに単純な思い込みの学習機能だ。目覚ましが鳴る前に起きるくらいに人はなる。そういう「学習機会」に恵まれこなかったのも、現代人の問題だ。神経症の人は、よく「甘え」が許される。神経症的な人は、自分が甘ったれていることや、怠けていることを気にする。が、実際に、ムラがある。弱さ、強さのギャップがあるので、フランクルやアドラーは、「再教育」や「励まし」が必要になるという。
悪くいうと、神経症的な人は、発育不足だ。再教育、ストーリーの刷新というナラティブな治療効果もある、ということだ。