心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

日本に知識人など、左翼などいない。

そもそも、知識や知性は、世を照らす光で、自然科学も尺度である。すなわち、測りだ。たしかにバカより、物事の隅まで見える。だが、私は、知性、知識というものには、基本的に全幅の信頼はない。物理科学や医学で、身体や宇宙をすべて理解できるわけではない。あくまで不可知は、文字通り認知できない。

 

知識や知性に創造やダイナミズムがあるとは考え難い。知は権力であり、硬直と停滞である。知はエロティックで創造的だろうか? 知は、エロティシズムを「考えられる」だけだ。「そのもの」ではない。

 

世の中を変えるのは、エロティシズムにかかわるものである。秩序や正義や法は社会の構成であり、人の知により齎された。

 

世の中のそういう知と権力はときに硬直、停滞を表す。ダイナミズムとは、エロティシズムとバイオレンスであり、知識の総量では無い。

 

実際のところ人類の知的リソースは高まっていながら、なぜか社会は不安定であるのは、バイオレンスやエロティシズム、死にかかわることに脅やかされているためであり、無意識の反作用であり、左翼や権力者は、それを「ちゃぶ台返し」さえるのを実は、恐れている。

 

話は変わるが、柄谷行人が、夏目漱石柳田國男坂口安吾中上健次を文学の中では、推しているようだが、それは、わかる。すなわち、彼らは、「足場」を崩して、着地できないどころか、自壊する。柳田國男は四人の中では違うかもしれないが、彼は近代より以前のものに見出し、夏目漱石は自問により自壊し、坂口安吾は白痴や戦争やエロティシズムに見出し、中上健次は、暴力、性に見出した。それは、知識人の予定調和や、筋書きを突き動かすタナトスでありエロティシズムである。とくに三島由紀夫なんかは、自害さえした。

 

私は、左翼とか右翼とか正直言ってどうでもよいが、日本人にもよくいるような、知識自慢や知性的な語りをするネットのおっさんたちは、まさに、神経症の権力欲だと思っている。ネトウヨはそもそも知性も知識も乏しい。日本の不安底な社会や歪みが、劣等感と知識おじさんを生み出した。それで存在意義を保てる。政治音痴、芸術音痴な人やセクシャリティや人並みの幸せにあやかれないとなれば、知識で踏ん反りかえるしかない。

 

知識自慢の左翼おじさんは、たんに神経症的埋め合わせであるのは宮台真司が、神経症批判で暴いている。ネトウヨと同じく、人間疎外のなのだ。だから不安や孤独の防衛規制のために「知性化」を測り、孤独に伴う不安や恐怖に直面しないでいる。まさか、自分が良識によって「あんなやつよりまともである」という相対評価やポジションにいる。自分を「知識人」だと自覚している。

 

宮台真司に言わせれば、日本の右は、「バカ」で「とんま」なだけで、そもそも、承認や社会の居場所や友達や恋人がいないなど、庶民的な問題をかかえている「寂しいやつ」で不幸な成り立ちだ。政治的、公共的な達成に興味はない。

 

権力欲は、むしろ知識人も、同じだ。疎外された知識人の「自己欺瞞」に、敏感な蓮實重彦坂口安吾中上健次夏目漱石は、自らにメスを入れずにはいられない。江藤淳も同じである。柄谷や蓮實の「苛立ち」や中上健次の苦闘とはご都合主義の戦後左翼の知識や良識に居直り、溜飲を下げる仕草、馬鹿馬鹿しさだ。

 

三島由紀夫は、そのままボディビルの「自己変革」までした。さらに、自分の身体に「メス」を入れた。左翼が恐れているのは、まさに、その死の香り、マゾなエロティシズム、グロである。

 

三島由紀夫に、左翼が敵わないのは、日本の知識人が、たんに「知識」や「良識」に留まり、図らずも権力に与しているからである。

 

反権力などと言って、知性は世の中を測る術しかない。それどころか知という権力や芸術の権威を密かに信じている。

サルトルが、飢えた子供を前にして文学は可能か、カミュが自殺の問題を考えるほどの本質的な問いや釘は打たない。何でもかんでも語りたがる自意識過剰な、「左翼タレント」「愛国ビジネス」の類いだ。

 

私は、知識人とやらに、「知性は創造的でダイナミック」だと言われたことがあるが、不思議だ。有史以来、いや、以前から、たかだか知が、人の歴史を生み出してきたのか、疑問だ。知恵の実を齧ったアダムとイヴが、蛇に唆されたのが真実だとしたら、それは、知恵ではなく、人間の根源的な欲に対する弱さである。弱さゆえに人は命を繋いできた。それが、「知識」で、世の中を作り、片付けられるような浅はかなものではない。もっと根源的な生、死、性にまつわるものだ。

 

本当に、知性が世の中のダイナミズムや「歴史」を作っていたのか、半信半疑である。むしろ、智慧は「悪魔の道」ではないのか。

 

甚だ滑稽な自己欺瞞とはまさにそのことで、夏目漱石なら、そんな風に「居直れる」はずはない。アクロバットな思い込みの持てるほど気楽では無いが、日本の知識自慢おじさん(なぜか基本的に社会に居場所がないか自信が持てないような虚勢張りおじさんが多い)

 

知識人の「自己欺瞞」に苛立てないような、知識人などは、もとから知識人でなく、「自己欺瞞」である。日本に知識人など、左翼などいない。

 

私は、左翼知識人と言うのが本当に嫌いだし、ネトウヨなどは論外である。私が、唯一信頼できるのは、一部の科学者と、名前にあげた文学者や哲学者、宗教者だ。

 

Twitterやネットで、クローズドなサークルごっこや左翼ゲリラ作戦会議、ラジオトークなんかしている人は、小林秀雄なら、唾棄したはずだ。すなわち、小林秀雄は、講演で、「なぜ群れるか」を説いた。すなわち、イデオロギーという左翼のナラティブな予定調和が必要なのだ。それをバーチャルに慰めあうのは、くだらなさすぎる。自己欺瞞に行き当たらない怠惰な「知性」などとは笑止である。

 

自分が「メタ的に優位に立てる」のが、「左翼」というバーチャルであり、それを見下すのが日本の「ネトウヨ」である。こんな世界に「ダイナミズム」などない。自分が「知恵ある立場」という権力欲の裏返しである。少なくともネットで、知恵熱を滾らせるのは、惨めである他ない。私は、自身、そういう「恥」を感じる。