心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

知識欲はとらわれの牢獄

よく、森田正馬の本に、やたらと知的な神経症者が出てくるが、本当に不思議で有る。しかも、知的にもかかわらず、症状が治まらない。

 

というのも、どんなに頭が良くても、知識や探究が、神経症や生きづらさを解消してくれるという回避的な言動をしているから、なにも解決してないからだ。偉大な哲学者や音楽家も、結局は、「苦悩」は避けられないように、我々が、そんな一朝一夕で、なにもかもネガティブを「無くす」ことはできない。

 

だから、不安や恐怖が強い人は、やたらと、「不安をなくす方法」を聞いてくるが、直面していないのだから、消えるはずはない。知識や理屈や薬の「回避方法」や、不安を完全になくす方法などを、医者や知識に尋ねるが、実はそんなものはない。みんな苦悩したりネガティブになりながら、戦っているわけで、神経症者は、なにもしないで手っ取り早く、「解決策」を探しまわり、探したり、逃げたりする口実を探し回り、あげく、症状を作り出してしまう。というか、不安や恐怖が強い人は、自分から、その負の感情にスポットライトをあてて、精神交互作用により、自ら強めている。人は、意識したものを強めるからだ。だから、恐怖や不安を盾にして、なんらかの「回避方法」を工作する。

 

解決しようとすれば、ますます「人工的」な知識や理屈で身動きは鈍る。

実は、人が身動きがとれなくなるのは、不安や緊張や恐怖のせいではなく、人一倍、逃げたい、見栄や思いを叶えたいという強い我欲のせいである。臆病、小心者とは関係ない。人は、強すぎる心的欲望により深みに陥る。

 

実は人は不安や恐怖があっても動けるのだが、神経症者は、それを理由に、自分がいかに傷つかないか、というエゴイズムがある。

 

なにより知識欲はエゴである。

じつは他人より優っていたい煩悩でしかない。アスリートや芸術家は、苦悩したり緊張したり病気や怪我をしながらやっているのが普通だが、神経症者は「不安や恐怖を無くす」ことしか頭にない。だから、身をもってなにもやれないし、結果的にやらない。不安や恐怖を無くすなどありえない。

 

真理に対して、病気に対して、人工的な考え方や思考や気持ちで、な床を、克服したかのように見えるかもしれないが、人生の問題は、高尚な知識や哲学が、「死」を、回避してくれるわけではない。

 

どんなに頭が良くても、人は滑稽なところは必ずある。

 

神経症者は、ひたすら勉強して、なにか、症状や生きづらさを解決する魔法があるかもと勘違いする。じつは、そんなものはないし、不老不死や病気にならない身体などない。身体は毎日、しに向かって変わり続けているだけだ。

 

森田正馬の本でも、妙に頭が良い患者が出てくるが、なんでも理屈で考えて、まったく症状が治っていない人がいる。

 

結局は、知識欲や知識、理屈は、自然や生理や真理を誤魔化したり消したり操作はできない。そうやってよくやエゴで、生理や真理を捻じ曲げることをできない。

 

百戦錬磨の医師も死ぬ時は死ぬ。

 

神経質な人は、勉強したがるし、仏教も悟りを「勉強」はできない。

 

悟りは言語化は難しいからだ。頭が良い人ほど、認識力があるかもしれないが、主観的観念論に陥って、人工的な「考え方」に、自分を無理矢理当てはめようとしがちになる。

 

素直に、死や恐怖や不安に抵抗せずに、突入していくのが、やはりベターだと思う。結局、結果的に気づいたら治る道は回避ではなく、「突入」だからだ。

 

強迫にも、知性化という防衛機制があるが、知性的な振る舞いは実は防御であり、逃げで有る。神経症は、基本的に、「自分酔い」のクセに近い。主観的な精神交互作用により、必要がない意識について集中して、なおかつ自分で変な意識をしながら、それを取り除こうとする回避行動だ。たかだかつまらない虚栄心があるために感情に言い訳をするために体調不良にしたがるのだ。

 

このような一連の流れは、はっきり言って、滑稽な部分がある。自分で、暗闇で怪物にスポットライトをあてて、腰を抜かして、それをどうにしかしたいとしているわけで、最初からスポットライトを当てているのは自分でしかない。だから、繊細とか呪いとかいうより、そもそも、ただの変な癖なのだ。どんな常人も、心臓部や呼吸を意識しすぎたら多少はおかしくなるが、神経症者は、必要もないのに、ある特定の身体器官を意識する。それ自体「無意味」なのだが、そこに病気という意味を勝手につける。その意味では、ある意味で、意識の病気を作り出している、ということで、そもそもは病気ですらない。