心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

「参った 往生した」それでよい

症状に負けて良いし、治らなくても良いのだ。

 

しかし、「頭の理解」で、それで、よくはない。いくら、ありのままでよいと、「頭の理解」をして、ひたすら頭で唱えてもしょうがない。

 

「参った!」という、これを「腹に落ちる」必要がある。

 

潔く、観念して、ひたすらになにかをしているとき、あっ!となることが、森田正馬が、よくエピソードに書いてある。

 

この、あっ! が、頭の理解ではなく、腑に落ちた、悟ったときなのだ。

 

症状や病いを支配して、征服はできない。

意識的に、治すより、ひたすら、なにかやってるとき、その、あっ! が分かる。

 

たとえば、神経症不安の人が住んでいる近くで、火山が噴火して「必死」で、「無我夢中」に逃げたりしたとき、その、あっ! が分かる。

 

つまり、それを、「体得」「体験」できる。「その感じ」が分かるようになれば、すなわち、無心、無私のようなものだ。もっと言うと、雑音や、雑念なんか、当たり前で、あって良いが、集中していたら、それが気づいたら気にならなくなっていた、なんてのが理想だろうか。

 

神経症者は、雑念や雑音を「消そう」と回避行動をして、さらに神経症を強めるが、実は、「雑念、妄想があっても集中」出来ることを知らない。

 

スポーツマンなど、プレッシャー、緊張、不安、応援、騒音や罵声の中、集中しているが、あれを、神経症者は、「おまえら観客や不安や恐怖、緊張を消さないと集中できない」と言いたがるのだ。それは神経症者が不可能を理由にしたがるが、パフォーマンスは実は、周りに左右されずに、出せるのだ。

 

 

神経症者は、あまりに、主観的かつ客観的に観念論になりすぎる。「頭」ばかりで、体感、身体、感情が追いつかない。「排除」「回避」したがる。

 

もはや、騙されたと思って、がむしゃらにやってみるのも悪くない。

 

唱えるなら、どうせ治らなくても知るか! くらいで良い。いちいち「治そう」なんてしない。

 

ああ、俺は変態で小心で馬鹿者かもしれない、それくらいで良いし、事実の方が清々しい。