心の書庫

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体得 それがシンプルで難しい

神経症治療には、結論からすれば、良くも悪くも諦めてしまうのがよい。

場合によれば、服薬も悪くはない。重要なのは、とらわれとはからいの、作為だからだ。

患者が、治す意志があっても、しばしば、理論や、意識や知恵や、森田療法の本ばかり読むことがある。

 

とは言え、それは治療に2.3割の寄与しかしないと言う。

 

知恵だけでは「体得」が分からないからだ。仏教も知識だけの頭では悟れない。

 

たとえば、医師免許がなくとも、医学知識だけあれば、医者になり、手術することはできない。

楽器も、知識ばかりで弾かなければ、まったく弾けない。

恋愛も、モテるテクニックなど本だけ読んでも、直面しなきゃ、意味もない。

 

それと同じように、神経症治療も、森田理論や他の知恵を頭で総動員したからと言って、「治る」わけでもない。

 

むしろ、治そうとしている前向きな意志さえ、逆効果になる場合さえある。

 

ようは、「もう観念した!治らんで良い、むしろ悪化してしまえ、毒を出す要領で、吐き出してしまえ、症状が出てしまえ、と言った方が良い。むしろ症状が出るほど良い」くらいの、不安定な気構えがよい。悪化するほど、症状が出るほど良い、と言うのは、神経症者が、「症状が出てはいけない!」というとらわれと、まったく逆のエネルギーだ。神経症症状は、出すほど良く、拒み、逃げるほど強まるからだ。

 

回避や拒絶は、ますます、意識を強める。意識が、体得を妨げてしまう。

 

これを、神経症者は、最初、あまり理解できない。

 

vフランクルも、森田正馬と同様に、このような逆説である。治療効果はかなり高いそうだ。

 

体得するために、虎穴にいらずんば、と、えいやと、やってみる。それが、シンプルで難しい。しかし、それが肝要だ。

 

「治す行為」をするのではなく、「普通に生きる」わけだが、それを意識的にやろうとすれば、まだ不完全だ。

悟るときも、体得するときは、その作為を超えたときだが、それは、理解や理論で説明は難しい。

禅や仏教の本質のようだが、森田正馬が言ったのはその、主観的-客観的次元を超えた、直感的な生である。

 

たとえば、ひたすら薪割りしているときに、森田理論では、神経症患者が治った例がある。

 

実際に、薪割りをすれば良いとか、薪割りが神経症に役立つわけではない。

 

今言ったような、主観-客観のとらわれやはからいを、無意識に体得するのなら、薪割りではなくとも、他でできるだろう。

 

いずれにせよ、治さなくてならない(とらわれ)とか、治そう(はからい)するより、服従することがよい、というわけだ。

 

心的欲求がカルマなら、不純な動機は、必ず悪業になるように、心的動機は必ず内にある。それを踏まえて、やってみることだ。