心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

フランクフル 百足のたとえ

フランクルは、神経症者、とくに自意識過剰な人は、まるでムカデが自分の足の動かし方を意識しすぎて、前に進めず、出鱈目に動いている様子をたとえた。

 

意識や理論は、基本的に、人間の自然な流れを阻害して、不自然でぎこちないものになりやすい。

 

人の「身動き」は、理屈や意識が先にあるわけではなく、無意識とからだが、勝手に自然と動くもので、これが「頭でっかち」になると、身動きが取れなくなる。

 

考えないのは問題だが、病的な考えすぎが、動きづらく、不自然なことだと理解できると思う。

 

気持ちよくゆったり泳いでいる人が、ひたすら考えているはずはない。基本的には、「体得」した上の無意識に近い。意識はあくまで抑止的な意味しかない。

 

神経症者は、自意識過剰で自己中心性があるのに、さらに理屈や理論や考え方や気持ちに傾いてしまう。

 

無意識と身体と、意識はたんに拮抗作用があるに過ぎず、意識はありすぎれば、逆に不自由にするのだ。

 

いちいち、歩いたり、泳いだり、呼吸したり、意識的にできているわけではなく、たんに無意識にやってるから、出来るわけで理論ではない。

 

赤ちゃんが立って歩くのは「理屈」や「理論」を本で読んだからではないということがわかれば、いかに、本や情報が、自分を成長させるとは限らないか、分かると思う。意識や理論、知恵や薬は「補助」でしかない。

 

だからといって「まるでなにも考えない」「一切意識しない」と、極端なことをやりたがるのも神経症者だ。それは、事実を無視した理想だ。雑念はあっても良いのだということを森田正馬は言っている。神経症者は、とらわれとはからいによる、精神交互作用から、排除、回避行動で悪化して、常人は、雑念があってもさほど気にしないでそのままにしている、精神病はもはや雑念そのものが現実か夢か嘘か分からなくなってしまう。そのままにしている、無駄な足掻きをしないのをイメージすると良いだろう。