心の書庫

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神経症の問題を自分の問題と認められたら半分治ってる

 

よく神経症者が、◯◯の境遇や、家族や、こんなニュースや事件を目撃したから病気になったなど滔々と話す。

 

しかしながら、人の生はままならない。

 

よく、病気の人は、病気をカムアウトするが、神経症の人の場合は、病気の話はむしろしないほうが好ましい。

 

 

 

というのも、神経症不安は、カミングアウトすれば、周りの理解を過剰に求め、まわりに自分の病気を認めさせてまで心理的な負担を背負わせようとする。

辛いエピソードや外界を「きっかけ」にしているだけで、症状や不安や恐怖を作っているのは、残念ながら自分である。

労わりを周りにさせて、自分を生かそとする。「ストレス」と言って、外界に責任を押し付けたり、神経症特有の観察眼によって人の「粗探し」「言葉尻」「しぐさ」に囚われて、それを理由にするが、悪感情を齎しているのは自分だ。自分の中に元から悪感情がある。

 

カミングアウトなどときこえはよいが、神経症患者は、基本的に自分が自分で生み出した感覚をどこかでみとめたくない。

 

だから、腹痛が、吐き気がめまいが、憂鬱が体調不良がという。それを生み出している責任主体を、周りの人に背負って貰おうと、周りの理解を求めてまで、責任をなすりつけようとしないほうがよいし、いちいちカミングアウトして、周りを微妙な空気にさせる。周りが医療者ならよいが、周りが一般の人に理解させるのは無理がある。

 

さらに横柄になると、年がら年中体調不良や神経症不安の話ばかりになり、頭が完全に症状に支配される。

 

よく、家族や対人関係のトラウマやささいなことを口にするが、神経症において、外界はあくまできっかけで、主観的症状や感覚は、責任主体は自分にあることに気づかない。

 

だから、神経症患者は、やたらとカミングアウトしたがる。それで、不安を周りにも理解させて、責任逃れして、周りの理解という形を作ってまで、自分を労わろうとする。

 

しかし、神経症は残念ながら、カミングアウトでは治らない。そんな簡単に治るなら、とっくに直るのだが、理解などは際限がない。道ゆく人や赤の他人まで、家族に、神経症や不安や恐怖を撒き散らかし、カミングアウトという名前で周りを、善意、不安、恐怖、理解の世界という自己中心性を発揮するのが神経症だ。尋ねてもいないのにいきなり病気を発信したりする。しかも、みんな生まれつき境遇や問題もあるのになにより自分の不安や恐怖の理解を一番に求める

 

神経症患者は、残念ながら、気づいていないが、基本的に自分のことばかりだ。作業や看護や問題に直面してはじめて、外界や他者に意識が向いたとき、たまたま治るのはそのせいで、たまたま自分のことばかり考えなくなったからだ。

 

周りの些細な言動に責任をなすりつけているが、悪感情は、自分の責任もある。

 

フロイトアドラーは権力欲や、疾病利得と言った。簡単に言えば、ナルシストや、弱い人が、自分は弱いアピールをして人から構われたりチヤホヤされるために病気を利用したり、逃げたり、周りから労わりを強制するためだ。自分の主観的な世界観を周りにも背負わせようとする。周りの人もみな病気や怪我や借金や自分の生活があるのだ

 

しかし、神経症患者は自己の不安や恐怖ばかりで、不思議と周りを率先して考えたり、周りをケアしようとはしない。

 

神経症患者は、自分の不安や恐怖の責任を、周りにケアさせるために、やたらとカムアウトしたがる。

 

森田療法では、病気の話をしないように勧めているが、私も同感する。

 

外相整えて、健康のように振る舞え、とまで推奨している。

 

神経症患者にとって、病気自慢は、ますますとらわれとはからいを強めるので、おすすめはしない。

 

神経症の人は、重病に怯えながら、半ば重病を期待している。それでてっとり早く日常を有耶無耶にし、周りから労われると勘違いしているからだ。しかし、重病は生やしいものではない。体調不良の話ばかりするのはやめた方が良いだろう。