心の書庫

主に本を通じて書いてゆく 書庫代わり 自分へのヒント

相手の中に、自分の心があるわけではない

そもそも、神経症患者は、自分も他人も「観察」している。悪く言うと、話は聞いてないし、周りの人にそもそも関心はない。人一倍自分に関心があるが、しかし、自分が向き合うには弱い性格気質と強気の板挟みになってしまう。

 

そうやって、神経症患者は、自分の疑いや不合理な悪感情や葛藤を、自分のものではなく、他人の言動やしぐさに発見しようとする。

 

しかし、世界というものを見ている、心のフィルターは、紛れもなく、他人ではなく、自分である。イメージや感情も、他人の気持ちがわかるなどと言うが、自分の生み出した業、欲であり、向き合うのは、他人ではない。自分に向き合うより、他人に、ありもしない欲やイメージを肩代わりした方が楽だからだ。まさに神経症的回避であり、心理学的、投射、防衛だ。

 

だから、人より疑い深いだけ、それだけ必要以上に、相手に愛情や期待を受けよと、評価を得たいから、相手の中に、わざわざ、自分への評価にかかわるような、否定的な感情を抱く。否定的な感情を引き出して、期待の裏がえしをする。

 

だから、自分よりも先に、「あいつは人間不信だ」なんて言うが、そもそも人を信じたいし、愛情に飢えているのは、自分である。不信感があるのは自分で、誰よりも、人の評価に依存しているのも自分だ。

 

神経症患者は、自分も他人も観察過剰になり、あげく、周りにイチャモンをつけて、周りのどうしようもなさに置き換えて、自分は虚栄心や見栄坊で、等身大の自分や悪感情を他人に置き換えてしまう。

 

周りをごちゃごちゃかき混ぜながら、本当は、自分についてである。「自分のフィルターの汚れ」に無関心でいたいのだ。

 

これが、いわゆる神経症的自尊心である。だから、周りが、主観的に自分より下だと思われる人に虚勢を張るようになり、ますます自分の「心のフィルター」が曇る。

 

神経症には、主観的にはあくまで他人が腐っているわけで、自分の心に責任はない。ナチスドイツも、自民族の優越感と劣等感がないまぜになっていた。無自覚にせよ、意識的にせよ、神経症的な優越感の犠牲になる対象が必要になるのだ。

 

周りが自分に影響や危害を与えたのだから、自分を「労わる」ようになる。基本的には、周りのせいだからだ。

 

神経症が休みたがるのは、まさに、このような、敵意や権力欲が潜在的にあるからだ。それが支配欲になれば、病で他人を無自覚にコントロールする権力欲や自分に注意を向けさせる術になる。

 

権力欲や愛が、いよいよ叶わないとなると、病気を作り出したり、道徳的、知的な優位(権力欲)を求めるようになってしまう。

 

森田は、恐怖突入と言ったが、ようは、小細工なしに、そのまま現実にコミットしろ、ということだ。神経症患者は、周りの人に責任や感情を押し付けたり、症状があったら、いちいち回避したり逃げたり、無意味に優越感に浸りがちになる。自分は無根拠に優位だと言うより、自分は劣等的だと素直に向き合ってあげるほうが、「勇ましい」のである。そして、神経症が治るときは、大抵、恐怖や不安や過剰な期待や評価を認めて、あきらめて服従したときである。これを無自覚に体得したとき、気づいたらアッサリ治ってしまう。自分の神経症を治す為の、勉強やあがきや宗教的修行や気合いやオカルト、スピリチュアルも、回避行動でしかない。世の真理(死、苦、無常)を向き合うことを回避するための、ごまかし、である。「心理的な苦しみ」はすべて、悪業である。

 

 

「どうにかしよう」と言うエゴイズムでしかないから、エゴイズムを益々強化してしまう。どうにかしようとして回避するのではなく、「どうにもならないから、どうしようもないことに素直に向き合っていく」あまつさえ突入していく。これが、「体得」である。

神経症患者は、どうにかして治そうとするが、回避、排除の思考であるため、ますます、強化される。

常人は、不安や恐怖があっても、行動を優先するという発想があるが、神経症は踏みとどまってそれを「払う」ようにするが、これは、まるで効果はない。やがて無理とわかると、神経症、強迫の発作が激しくなり、落ち着かなくなる。やがて、それも難しくなれば、薬や周りを巻き込むようになってゆく。自分は嫌われているのではないか? ときにするが、なにより、自分を認められず、嫌って、他人の評価に依存しているのは、残念ながら自分である。周りは自分を慰める道具ではなく、あくまで、同じ人でしかない。

 

サーフィンと同じで、波を神のように支配はできないが、乗りこなすことはできる。困難は克服し支配し制御するのではない。なぜから困難は際限がないからだ。これを、乗りこなすのが普通である。

 

「心」という現象は、無常だ。それが、内側か外側にあるのかが問題ではない。「欲望」に「火」をつけ、「心」を通すのは自分だ。それを見れるのは、やはり自分だ。自分という幻影だ。